学生時代、とことん掘り下げた自分年表が今も指針になっている 前編│津山中央 病院│藤田浩二 先生

医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、可能性を広げた先にある景色、そして、そこに至るまでの障壁や葛藤についてお話を伺っています。

今回は、岡山県で総合内科・感染症内科として地域の社会システム構築にも取り組まれている藤田浩二先生(津山中央病院/(総合内科・感染症内科)にインタビューを行いました。

前編では、藤田浩二先生のキャリアの原点について、じっくりとお話を伺いました。

>>後編『コロナ禍だからこそ気づけた、「欠乏感」からの解放、没頭する大切さ』はこちら

目次

薬学部卒業後の医学部への再受験、その原点とは

Antaa 加藤

薬学部を卒業されてから医学部を再受験された藤田先生のキャリアのターニングポイントを教えてください。

藤田先生

医学部を再受験した点と医師になってからという2つのキャリアのターニングポイントについて話ししたいと思います。

まず、薬学部から医学部を再受験した経緯ですが、薬学部が嫌いになって進路を変えたわけではないんです。

当時、私は薬学部の大学院の修士課程に在籍していて、元々、化学や薬理学がとても好きで実験自体も楽しかったこともあり、研究室で実験に明け暮れる日々を過ごしていました。しかしその中で、一生を捧げていくことができるのかと考えた際、実験室の中より臨床現場のほうが自分にあっていると考えるようになりました。

実験よりもむしろ患者さんと向き合う道が自分に合っていると思った、というのが正確な表現です。

Antaa 加藤

好きだった実験ではなく、臨床の現場で医師として活躍する道を選ばれたわけですね。

藤田先生

そうなんです。今振り返ってみて、自分自身が臨床現場に潜在的に興味を持っていた背景として、まず、幼い頃に父親が交通事故で亡くなったため、他の方よりも早い段階で生き死にを考える場面があったと思います。そのこともあり、私は幼少期から生命科学に強い興味を抱いていたことが挙げられます。「命とは何か?」「なぜ生物はこのように活動できるのか?」といった問いに対する関心が幼少期からずっと私の深いところに存在し続けていました。

ただ、若いころは中々それが職業として、研究者なのか、学者なのか、宗教家なのか、一体なにが何がいいのかずっとピンときていなかったんです。

化学が好きな理由はよくわかりませんが、祖父が研究者だったこともあるのでその影響を潜在的に受けていたかもしれません。

藤田先生

父親の早すぎる死と、生命科学への興味、そして化学への愛情が結びつき、いったんは、薬学部での実験に進むことを決意しましたが、年月が経つにつれ、子供の頃からの疑問である「命とは何か」にと言う疑問が再度自分の中で燃え上がって来たため、自分の一生を通じて何を成し遂げたいのかを再考しました。その結果、「現場に出て患者さんと向き合いたい」という願望が芽生え、医学部への再受験を決意しました。

Antaa 加藤

医学部を再受験するというのは大きな決断だったと思います。どのようにご自身の気持ちを整理されましたか?誰かに相談はされましたか?

藤田先生

医学部受験の際、親には自分の気持ちを伝えましたが、その他の人には相談はしていませんでした。同級生の多くが薬学部を卒業して働く方向に進んでいる中で、私が医学部受験を考えていたため、一般的な流れに逆行して、ほとんどの人がやらないことをやるのには、きっちりした動機が必要でした。

それが無いと受験のモチベーションを維持できませんし、何ら保証の無い受験に対して不安が強くなるだけでした。そのため、受験のための知識はもちろん重要なのですが、その前にまずは自分の志望動機をとことん整理し直すことが必要だなと直感的に思いました。それでまず行った作業が、思い出せる限りの幼い頃からの出来事を年表に書き出して掘り下げるということをしました。ライフレビューみたいなものでしょうか。

相当な分量をひたすら年表に書き起こしてそれをじっと眺めて、現在の立ち位置から未来をもう1回考えてみたときに「やっぱり医学部行くしかないよな」というのがすーっと線で繋がった感じがしたんです。それまで言語化できていなかった自分の深い所の欲求が見えたんだと思います。

Antaa 加藤

医師としてのキャリアを歩む過程で、その年表を振り返ることはありましたか?

藤田先生

はい、ありました。その年表を作成したおかげで、医師としてのキャリアを積む過程で、時折ブレそうになったときに、年表を作った頃のことが原点のようなものとなりました。寝不足で肉体的にしんどいや、自分の実力が伴わない腹立たしさや苦しさは要所でたくさんあったと思うのですが、その都度原点に帰ることが出来たので、この仕事をやっていて後悔とかやめたいと思ったことは一度もなく、医者が天職だと思ってやっています。

社会システムにアプローチできる医師に

Antaa 加藤

2つ目のターニングポイントとして医師になってからは、どのようなお気持ちだったか、その時に悩んだことはありましたか?

藤田先生

患者さんを治療できる力、しっかりと治療できる能力をもっともっと身につけたいと思っていました。しかし、最終的には自分がキャリアを積んでいった時に、社会のシステム全体に適切にアプローチできることが大事だと思うようになりました。

個々の疾患にはさまざまな理由がありますが、それらの背景には、政治、経済、教育、環境などの問題も大きく絡んできます。身近な所で言えば食の供給、医療提供体制、貧困、教育の格差などが個々の健康問題と大きく繋がってることを日々感じます。こういったいろいろな世の中のシステムが歪んで不具合を生じると、その中にいる人々に何らかのしわ寄せが来ると思っていますので、その原因となっているシステムの歪みにアプローチできる人になりたいという想いはずっと持っていました。

藤田先生

結局、こうしたアプローチを直接実践できた感覚が持てたのは、コロナ禍でした。。
これだけ大きな出来事が起きると、目の前の患者さんをひとりひとりただ治す話だけでは、何も解決しない感覚が強くなります。日々の臨床業務を続けながら、地域の教育委員会と話をしたり、学校にレクチャーに行ったり、警察、消防、保健所、市役所、県庁とも連携して仕事をし、通常の病院業務を超えた仕事に関わらせてもらうことが増えました。

それ以前は地域の拠点病院の感染症科の責任者としては頑張っていましたけど、やはり病院の中だけの話に近かったと思います。コロナ禍を境に、より広範なエリアの仕事に切り替わってきたと思います。

自分のキャリアの中でいくつか分岐点があったわけですが、このコロナ禍が一番大きな分岐だった気がします。

Antaa 加藤

キャリアを積む中でシステムにアプローチできる医師でありたいと思った際に、何か悩まれたことはありましたか?

藤田先生

かなり広いマクロな視点の話なので1人では何もできないと感じました。地域の医療を良くしたいという思いはありましたが、「どうやって」というところの手探り感は非常に強かったです。

一般的には駆け出しの若手や私のような中堅医師はまだまだ現場経験も人生経験も浅いため、実績や言葉の深みが伴わないですし、業界の重鎮の人から見ると信頼されにくく、明らかにマクロな仕事を動かすためのポジションに就けないな、という感覚が長い期間ありました。

臨床医としてのスキルがついてきたものの、システムを変えるような政治的な影響力を持つレベルには到底及びませんでしたから、この状況で何ができるのか長く悶々と迷っていました。

Antaa 加藤

コロナ禍を経て、さまざまな取り組みをされてきたと思いますが、今後についてどのようにお考えですか?

藤田先生

今でこそ、皆がコロナ対策の診療に慣れていますが、日本に初めてコロナが入った時期の院内クラスターは壮絶でした。

私たちの医療機関でも、岡山県で最初に医療機関で発生したクラスターだったのですが、結果としては14人中12人が死亡退院する事態になり、パンデミックがもたらす臨床現場の厳しい現状を最前線で体験しました。当時の病棟クラスターの状況は、患者は日々急速に悪化し、治療してもその勢いを食い止めることができませんでした。それでも日々の時間は流れていて、次々と新たな患者が発生し、さらに同時にコロナ以外の多くの出来事が進行する中とにかくもがいていました。

実力や時間、人手が全く足りない状況にありましたが、不足を憂いてもしょうがない状況でした。もうそうなると、開き直って、とにかくみんなで出来ることに集中しようという感覚になっていました。

藤田先生

そもそも人は、経験値がない、政治力がない、実力が足りない、ポジションがないと「ないないづくし」の中でもがくというのは若いときには当たり前かもしれないのですが、その”ない(不足、欠乏の感覚)”に囚われすぎると八方塞がりになる思います。

コロナ禍である意味強制的に軌道修正された価値観と言うのは自分に力があるとか無いとかはもはやどうでもよく、シンプルに目の前のことに思いっきり没頭してやろうと言う価値観。有るか無いかではなく、やるかやらないか、ただそれだけだったんです。お陰様で、今は日々必要なことに没頭していれば、勝手に自動的に必要な人に繋がっていく感じが非常に強いので特に何も困っていないです。

好きで得意なことに没頭していると、その仕事が社会に貢献出来る度合いが徐々に強くなってきます。このコロナ禍を経て、本当に素晴らしい人脈を得ることが出来たと思っていますので、このネットワークを活かして、ますます地域の発展に貢献出来たらと思っています。具体的なプランはいろいろあるのですがここでは紙面の関係上割愛させて頂きます。秘密です。笑

藤田先生

それとは別に、私自身が元気に楽しそうに働く姿を後輩に見せることがとても大事なことだと思っています。私自身が常に楽しそうに働く姿を示すことで、それを見た次世代のリーダーがより軽やかに大きく活躍出来るきっかけを作り続けたいなと思っています。

>>後編『コロナ禍だからこそ気づけた、「欠乏感」からの解放、没頭する大切さ』はこちら

藤田浩二|総合内科・感染症内科
京都薬科大学薬学部薬学科卒業後、岡山大学医学部医学科に入学し卒業。初期臨床研修時代を津山中央病院で過ごし、その後亀田総合病院で総合内科、感染症内科の勤務を経て、再び岡山県の津山中央病院戻り総合内科・感染症内科部長に従事。

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