医局への未入局とキャリアの不透明さ 前編|静岡県立静岡がんセンター|森川昇 先生

医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、可能性を広げた先にある景色、そして、そこに至るまでの障壁や葛藤についてお話を伺っています。

今回は、医師10年目でもう一度レジデントとして呼吸器内科に向き合う、森川 昇先生(静岡県立静岡がんセンター/呼吸器内科レジデント)にインタビューを行いました。

前編では、呼吸器内科を選択した背景や気になるキャリアの歩み方について、じっくりとお話を伺いました。

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目次

初期研修終了後、呼吸器内科を専攻したが医局には入らず

Antaa 加藤

本日はお忙しい中、ありがとうございます。森川先生は臨床だけでなく、執筆活動や教育など、さまざまな”働く場”で活動をされていると思いますが、初期研修から今に至るまでのキャリアで悩んだことはありますか?

森川先生

今もずっと悩んでいますね。逆に私もキャリアのことを相談したりできる場があれば嬉しいなと思っているような心境です。

Antaa 加藤

なるほど。キャリアの悩みは尽きないということですね。研修医の時代と今では悩むポイントは変わっていますか?

森川先生

そうですね、だいぶ変わってきていますね。元々学生時代は、心電図が楽しいと思って循環器内科を志していたことがありました。研修医の時には市立奈良病院で初期研修をしましたが、そこで働いていくうちに、ひとつの分野に絞るよりも広く診たいなという思いもあって、総合診療科と呼吸器内科の2つで悩みました。

呼吸器内科は肺が専門ではあるのですが、肺という臓器を通して、アレルギーや感染症、腫瘍、膠原病、場合によっては心不全など多岐に及ぶ分野に関わると感じました。診療のフェーズとしても急性期から慢性期、診断の時点から治療、緩和治療、最終的な看取りまで広く関わることができるので、専門科の中でも呼吸器内科がよいかと思いました。

総合診療科も魅力的ではあったのですが、呼吸器内科では気管支鏡や胸腔ドレナージなど手技も出来るところも良いかなと思いました。また消化器内科みたいに手技が中心っていうのもちょっと嫌だったので、手技と内科的なバランスが良い呼吸器内科を最終的には選択しました。

ただ、私は呼吸器内科の中では特殊な方かなと思っていまして、その理由としては、医局に所属していないからです。医局に入っていない呼吸器内科は多分少ないですよね。

Antaa 加藤

たしかに少ない印象です。医局に未入局という点で悩まれることが多かったりするのかなと思います。

森川先生

そうなんですよね、隣の芝生が青いわけではないけれども。
一般的には、医局に所属している呼吸器内科の方のキャリアはある程度線が引かれていると思います。後期研修を終えた後、自分の所属する大学院で4年間過ごし、卒業後に関連病院で2〜3年間勤務し、その後大学に戻って研究に専念する人もいれば、関連病院を転々としたり、関連病院で部長候補のような立場になり、そこで長期間働く人もいると思います。

…という一定のキャリアパスが見えてくるのですが、私は医局に所属していないため、将来が全く見えず、自分にはどうすればいいのか、どの分野に興味があるのかを毎回自問自答して考えてきました。これが良いと言われれば良いのですが、私にとってはかなり辛く、医局に入っていた方がよかったのかなと思うことも多々ありました。

実家の診療所でも勤務しながら、病院の呼吸器内科医としても勤務

Antaa 加藤

差し支えなければ、医局に入らなかった理由をお伺いしてもいいでしょうか?
たとえば、何か特別な出会いやきっかけがあったとか・・・。

森川先生

よく聞かれますが、正直に言うと、医局に入り損ねたというのが一番正しいですね。
私は医局に入らないという強いこだわりや哲学を持っているわけではないです。私は洛和会 音羽病院で後期研修していたのですが、その病院はあまり医局の風が強くなく、むしろ入っていない人も普通にいて、そんな感じだろうと思っていました。
しかし、年次が上がるにつれて、医者の常識がわかるようになるにつれて、そうではないこともたくさんわかってきました。ただ、学年が上がってから医局に入るのは遅すぎると感じてしまい、なんかもういいかなと思うようになりました。

Antaa 加藤

あまり医局の風を感じることが少なかった分、ご自身でキャリアを切り開くため、興味関心を持って次のステップを考えたりされたのでしょうか。その時々のターニングポイントとなる出来事などはありましたか?

森川先生

そうですね。私はかなり特殊な経歴だと思います。
市立奈良病院で初期研修を2年間、音羽病院で4年半勤務しました。その後、元々初期研修をした市立奈良病院に呼吸器内科医として戻ってきました。
実はちょっと事情がありまして、市立奈良病院で呼吸器内科医になった時、そこだけで働いていなく、病院の理解を得て実家の診療所も手伝っていました。診療所では火曜日が兄、水曜日が私、土曜日は隔週でお互いが勤務していました。

市立奈良病院は元々働いていた病院であり、奈良に戻るに当たり職場環境に慣れる事も早く、ある程度無理を聞いて頂けた事もあり、市立奈良病院に戻る事にしました。これが1つのターニングポイントかもしれませんね。

呼吸器内科医として活動していくうちに、他分野にも興味が湧いてきた

Antaa 加藤

ちなみに、現在も同じような働き方を続けていらっしゃるんですか?

森川先生

いえ、そこからいろいろな調整をしています。診療所は一時的に休院しています。それからもう一つのターニングポイントとしてあったのは結婚ですね。奥さんの実家が静岡にあり、そちらの方へ行くことにしたので診療所を休院することになりました。

またその頃、さらに専門性を磨きたいと考えた際に、呼吸器内科の中でも、肺癌を勉強したいと思っていた時期でした。それで医局に関係なく静岡で肺癌を学べる環境であるということで、静岡がんセンターでのレジデントとして昨年の4月から働かせていただいています。

また、後期研修時代に少し苦い思い出があります。臨床や教育には一定の関与がありましたが、医者の3本柱と言われる臨床/教育/研究の内、研究が本当はあまりできなかったんです。臨床が重要な時期ではありましたが、研究を学べる機会があまり無かったです。

森川先生

大学院に憧れた時期もありましたが、大学院に行き博士号を取得する事が目的という訳では無く、大学院の博士課程を通じた研究の技法を学びたいというのが本音でした。静岡がんセンターは幸いな事に臨床研究などが盛んな病院であり、研究の技法も学ばせて頂いています。

少し変わった話ですが、呼吸器内科医として活動していくうちに、他の分野にも興味が湧いてきました。音羽時代に、感染症の神谷先生という方がいて、音羽では毎日の朝レクチャーがありました。その中で神谷先生が成長の仕方について講義をしてくれたんですが、「まず自分の限界や行える範囲を知る事。その上で自分の範囲を少しずつ広げていく事で成長出来る」という内容でした。

それが何となく頭に残っていて、呼吸器内科医として、肺癌を中心に働いている中で、他の分野にも興味がわいてきました。例えば、他の癌腫での抗癌剤の使い方などです。肺癌でも使われる抗癌剤が他癌腫では同じ薬剤でも使い方が異なる事もあります。また最近では、癌腫横断的な検査や治療も出てきています。 そのようなことから、もう一度研修医としての経験を積みたいと思っていました。

Antaa 加藤

なるほど。

森川先生

それで静岡がんセンターでは、レジデントとして許してもらっています。呼吸器内科医ですが、消化器内科や血液内科、女性内科(乳腺科)もローテートさせて頂いて、学習者の立場も再度経験させてもらっています。
この経験は自分にとって辛いこともありますが、逆に研修医の気持ちや立場を再び理解することができるようになりました。これは私にとって良かったと思える一つの要素ですね。

Antaa 加藤

ありがとうございます。お話を伺っていると、大きなターニングポイントというよりも、ご実家のお手伝いや結婚といった人生のライフステージがキャリアに影響を与えたように感じますね。

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森川 昇 呼吸器内科
近畿大学卒業。洛和会音羽病院で初期研修。市立奈良病院で呼吸器科医を経て、現在静岡県立静岡がんセンターで呼吸器内科医として勤務。臨床研究にも積極的に参加し医学教育研究を進めている。

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