外科から訪問診療へ、宮地医師が辿った医療の多様な道 前編│掛川東病院│宮地紘樹 先生

医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、可能性を広げた先にある景色、そして、そこに至るまでの障壁や葛藤についてお話を伺っています。

今回は、現在静岡県掛川市の病院で院長を務める宮地紘樹先生(掛川東病院/院長)にインタビューを行いました。
前編では、宮地先生のキャリアの原点について、じっくりとお話を伺いました。

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目次

多様なキャリアの原点

Antaa 西山

宮地先生が診療科を選択したときのポイントを教えてください。

宮地先生

参考になるかわからないですけど、まず病院選びから始まりますよね。

病院選びでその病院で外科系が強いか、内科系が強いかみたいなのは最初にあると思います。僕なんかは大学のときラグビー部で、仲良かった先輩は外科系が多かったんですよね。傾向としても何となく体育会系の部活やっている人は、手技を学んだりすることが好きな人が多いと言われていました。僕も外科系かなということで仲の良い部活の先輩がいる研修病院を選んだというのが、理由の一つとしてありました。

そこの病院で、外科系でもいろいろあるのでその中でどの科にするかっていう話になります。元々僕は脳外科になりたかったんですよね。なので研修医になる前の病院の実習では脳外科を選んでいました。

宮地先生

ですが最終的には選んだ研修病院の雰囲気とか先生とか、自分がそこに入って所属して伸び伸びと成長できるなっていうイメージの部分から選びました。そのとき血管外科の先生が割と何でもやっていいよって感じの寛容な先生だったから血管外科を選んだのが最初の一番大きいポイントかもしれません。

あと他の要素としては、血管外科と言っても血管だけやっいてればいいわけでなく、消化器外科と一緒のグループなので消化器も血管も両方できるということと、血管外科に関しては、研修終わった時点から全てのオペをやっていいよというのがありました。普通外科医としてはそうでなく、5年10年かけて盗めといった寿司職人みたいな世界なので、経験を積むっていう意味で血管外科を選んでよかったと思います。

僕の場合、外科か内科みたいな大きな方向性はあったけど、それは多分自分の性格上、スキル系を学びたいか、知識とかそういうものでやって勝負していきたいかとかで判断したり、あと例えば泌尿器科や皮膚科のようなその科だけで完結するものもあって、自分が診療科ごとの特徴を考えた
上で、どういうことをやりたいかという像がぼんやりと把握できていると考えやすくなったりするのかなと思います。

Antaa 西山

若い先生ですと、まだやりたいことが決まっていないような方も多いような気もします。こういうことがやりたいみたいなのは、当時を思い出すとどのようにして発見しましたか。

宮地先生

どうでしたかね、やったことないことを文章で読んだだけじゃわからない部分も多いと思うので実習でやったことないことにどれぐらいコミットするかが重要な気がしますね。

あと僕らのときって医局から外れて過ごしてくっていうのが、なかなか難しい時代であまりそういう選択肢がなかったんです。今だったらもう、例えば医師免許持って、研修やらずにコンサルの会社行ったり、起業したりすることも選択肢としてはあると思います。

何か感覚的にこれだなと思うものがある人はそれをやってみる、全然わからない人はなにか現状ある中でとりあえず一番いいかなと思うことやってみてダメならやめて戻ればいいと思います。

面白いから集中するのでなくて、集中するから面白いっていう話もあるように、どれくらい踏み込んでみるかで面白さがわかってくるので何となく遠くから見てるだけだともしかしたら気づけないことも多いんじゃないかなと思います。

Antaa 西山

なるほど。まずは踏み込んでみるということですね。

宮地先生

周りが決まっている中で決まってないと焦りはすると思いますけど、本来は別に焦って決める必要ないし、やっぱり自分が面白いなと思えることを見つけられた方が準備に4年、5年かかろうが、後で本気で向き合えるし何とでもなると思いますけどね。

Antaa 西山

いまの言葉は、のちにこの記事を見た先生がすごい勇気づけられそうな言葉だなって思いました。

自分と向き合い過去に固執しない

宮地先生

その話の後日談になる話で、僕はいま外科専門医とかを更新してなくて、むしろキャリアを結構捨てています。キャリアを決めるという意味では、環境に応じて何度も選択をしていくことが求められていると思います。

ちなみに総合内科は全然専門じゃないんです。キャリアのターニングポイントは、外科医として6年目ぐらいで大学に戻ったあたりですね。

その前の6年間は2年間研修やって、3年ぐらい血管外科の先生のもと割と好きに手術をさせてもらって、1年間は大学の血管外科の医局に入局し、血管外科部長みたいな形で1人で関連病院に赴任しました。

宮地先生

その後2年間は大学院の院生だったので基礎研究をしました。基礎研究を選択する人がだいぶ少なくなってるかもしれないですけど、今まで臨床やってきた人が急に実験室で研究をやるっていうのはものすごいギャップがあるんです。外科って基本的に手術やってその日に終わって、うまくいった、うまくいかなかったみたいなのが分かりやすくてスッキリするんですね。

でも研究は3日間ぐらいかけて薬入れて待って、最後の日にどういう結果が出るか見て、なんか待てども待てども出てくるはずのポイントが全く出てこないみたいなことがあります。あー失敗したんや、この3日間全く意味なかったみたいな世界なんですね。あと結局研究ってちょっとでもいいから誰も知らないことを発見しないとインパクトが出ない部分もあります。途中やきもきした部分もありましたがダンダン面白さもわかってきて、振り返ってみればオペや臨床とは全然別のことができたっていうのは、すごい今は良かったなと思います。

Antaa 西山

研究が途中から面白くなったのは、何かきっかけがあるのですか。

宮地先生

こういう世界があるのかっていうところですかね。周りに今までと違うような考え方の人がいっぱいいてこんな考え方でやっているのかとか、こういう世界があるのかとかそういうのを見られたので。

あと割と僕の研究はうまく進んだのでそれが良かったかなと思います。やっぱりなかなか進まない人も多いのでそうなっていたら少し苦い印象になったかもしれません。

そしてキャリアのターニングポイントの話に戻りますが、その後臨床現場に戻りました。その頃10年目くらいになっていましたけど、大学の下っ端なんです、まだ。大学も人がいないから研修医みたいなことをしいてました、夜中までデータをずっと入れて、2日に1回は当番をやってみたいな形です。

少しずつなんかこれはやばいな、自分じゃなくてもできるなって思えてきて。なんか気分も落ち込んでくるし考え方もなんかもう早くここを去らなければみたいな考え方で、何か考えがおかしくなってくるんですよね。

Antaa 西山

そんな時代があったんですね。ちょっと意外です。

宮地先生

ありました。早朝から夜12過ぎまでずっと仕事していて、同期と、この生活スタイルはやばいよねと言いながら、カップラーメン食べるみたいな生活をしていました。太陽を全然見ないなぁみたいな。

海外が元々好きだったので海外に行きたいなと思って、とりあえず医局を辞めて、半年間家族と一緒に世界1周してから、海外に進出する病院に就職をしようと思っていました。内定までもらったんですけど、結局妻が病気になってしまい行くのが難しくなってしまい、妻が入院していたので子供の面倒を見ないといけない状況で外科もちょっと厳しくなりました。外科って24時間対応できないと厳しかったので。

当時名古屋住んでいましたけど、名古屋で生活をやっていくのにどうしたらいいかなって考えたらいろいろ転職しないといけないと考えました。

時短で自分が将来海外での仕事にも繋がることで何かできないかなと考えていました。血管外科だと、透析クリニックの手術をするのは決まった時間でできるからどうですかって言われました。知っている世界だったのでちょっと面白くないかなというのがあって無しにして、

宮地先生

次に考えたのが訪問診療でした。当時もう10年ぐらい前ですかね、訪問診療って全然確立されてない分野だったんですよね。あと良かったのが訪問診療って28日で大体回るんですけど、そうすると4ヶ月に1回、第5週がある月は、1週間休みなんですよね。その代わり休日出勤なんですけど。なので大体4ヶ月に1回1週間余るので、そこを休みにして1年に4回海外旅行行けるなと考え、訪問診療と海外進出のクリニックに変わったってのいうが一番大きいターニングポイントですかね。

Antaa 西山

大きなキャリアチェンジに挑戦されてみて、いかがでしたか?

宮地先生

僕の場合は、これは狙ってそうしたわけじゃないんですけど、良い結果に繋がりました。ひとつは訪問診療が多職種連携っていう今だと割とよく聞く言葉ですが、自分の属する医療機関以外の事業所や医療機関と連携しながら家にいる人の生活支えていくのはすごく自分と合っていてました。コミュニケーション、チーム作り、患者さんのニーズを拾うとかって部分がすごい自分でははまったんでしょうね。

もう一つは、お昼ご飯が外科のときはオペ終わってコンビニで買ったやつを一瞬で食べて、後々何食べたか覚えてない感じでした。訪問診療だと街の美味しいところをチェックしたりして生活感が結構一変した感じはありました。

宮地先生

あとさらに言うとこれはラッキーだったんですけど、そのクリニックが海外進出したりとか、ビジネス的な新しい企画とかで海外の医療を引っ張ってきたり、腸内細菌の腸内の糞便移植をやってみるとか、政治家と一緒に認知症村を行政として作るとかいろんな事業をやっていたんですね。初めて医療以外の人と関わって、企画をやるとか海外との連携で日本に新しい医療の形を持ってくるみたいな経験ができて、そこも自分としては面白かったです。やっぱり、医療はさっきも言いましたが、ルーチンワークで慣れてきてしまう部分もあるので。

何かそういうのを深掘りして深掘りして、95点から96点にして97点にしてさらにそこを微分するみたいに突き詰めるっていうのが得意な人もいれば、僕は7割ぐらいいくと飽きちゃって、また新しいのを立ち上げるところが好きだったから、そういった多面的な活動を経験したっていうのはすごく良かったかなと思っています。

まあ自分で選んだってよりは、たまたま結果的にそうなっていった部分も多いですけどね。多分あそこで透析のクリニックにしてたら今までやったことがあることの延長線上だったけど、今まで培ってきたキャリアを捨ててというのは言い過ぎかもしれないですけど、それにぶら下がらずに挑戦したっていうのはすごい大きなターニングポイント経ったと思います。それに付随して自分が予期しなかったいろんなキャリアをそこでゲットできた。自分でもあんまりわかってなかった強みが見えるようになったと思いますね。

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宮地紘樹|総合内科、血管外科
名古屋大学医学部卒業。 愛知県厚生連加茂病院にて初期研修後、公立陶生病院 心臓血管外科と名古屋大学医学部附属病院を経て、訪問診療クリニックに参画。その後、掛川東病院で院長になる。趣味は旅行とカメラとカレー作り。

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