偶発的な出会いで紡がれたキャリア 医局ではなく大学院病理診断科進学へ|飯塚病院 呼吸器腫瘍内科部長 靍野広介先生

医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、可能性を広げた先にある景色、そして、そこに至るまでの障壁や葛藤についてお話を伺っています。

今回は、飯塚病院呼吸器内科の靍野広介先生(40歳)にインタビューを行いました。医局ではなく大学院病理診断科に進学へ、サブスペシャルティではなくジェネラリストへ、と独自の選択を繰り返し、キャリアを紡いでこられた靍野広介先生。その節目には、様々な先生との出会いとご縁がありました。

目次

靍野広介先生のキャリア

1983年生まれ。
18歳 八女高校卒業、高校時代は陸上部・皆勤賞
24歳 佐賀大学卒業、大学時代はラグビー漬け
   飯塚病院にて初期研修スタート
26歳 飯塚病院呼吸器内科にて後期研修スタート
31歳 長崎大学病理診断科 社会人大学院入学
37歳 結婚
38歳 飯塚病院呼吸器腫瘍内科 部長就任
39歳 長男誕生

サブスペシャルティに迷う中で見えた、広域を俯瞰して診るジェネラリストの道

>本日はよろしくお願いします。病理学というユニークなサブスペシャルティを学ばれているとのことで、靍野先生のキャリアは大変興味深いのですが、まず呼吸器内科に進まれた経緯から教えていただけますか。

はい。私が初期研修医となったのがマッチング制度が始まって1〜2年の頃で、当時から飯塚病院は初期研修をしていると有名だったこともあって、何とか受かって入職しました。

初期研修2年間を終え、大学に戻るという選択肢もあったのですが、まだいまいち成長できてないと思う部分があり、飯塚病院に残って勉強することにしました。専門科については、飯塚病院だから、総合診療科か、救急科かなとも思っていたのですが、当時、出会って親交があった先生から呼吸器内科にお誘いをいただきました。緩和ケアにも興味があり、呼吸器内科は総合診療科であまり診られないがんの診断から治療も行えると聞き、内科も診れて、癌も診れて、面白そうだと感じて呼吸器内科に進むことを選択しました。
といいつつ、実際は誘われて勢いで「入ります!」って言ってしまったという感じでした(笑)

進んでみて知ったことだったのですが、専門内科はその中でさらにサブスペシャルティ、分野が分かれています。呼吸器内科だと肺がん、間質性肺炎、喘息・COPD、感染症の4つのサブスペシャルティから選ぶことができました。同世代の先生たちは、呼吸器内科である程度働いた後に、肺がんセンターや間質性肺炎の有名な病院でさらに勉強したり、地元の大学に戻っていったりして、各々の選んだサブスペシャルティに沿って進路を決定していました。

一方で、僕は町医者のようなジェネラリストへの憧れをずっと持っていました。
僕自身が抱くジェネラリストへの憧れとサブスペシャルティに沿ってキャリアを開拓していく同世代の先生たちの姿のギャップから、自分にとって最適なキャリアは何かなかなか決めきれずにいました。
そんなときに、呼吸器内科部長の飛野先生が飯塚に戻ってこられ、飛野先生との出会いが今の進路を選ぶ大きなきっかけとなりました。

>確かに、ジェネラリストに憧れを抱きながら、サブスペシャルティを選ぶのは、違和感がありそうです。飛野先生はどんなヒントをくださったのでしょうか。

そうなんです。とても違和感があり、もやもやしていました。
そんななかで出会った飛野先生は形態学、特に先生ご自身大学院で学ばれていた胸部の放射線の知識や、生理学的な知識を診療の基盤としてお持ちで、さまざまな呼吸器内科のカテゴリーを俯瞰して診られています。

呼吸器内科に限らず専門科に行ったらさらにそこから何かサブスペシャリティを選んで、またそこを突き詰めていくっていうのが多いのかなと思ってたのですが、さまざまなカテゴリーを俯瞰して診るような、ジェネラルな動きをしている先生もいらっしゃるんだなと、かなりの衝撃でした。

必ずしも一つの分野に特化しなくても、呼吸器内科の中でジェネラルに診療を行う、そういう生き方もあってもいいのかなと思い、自分のキャリアの築き方として腑に落ちました。

その後は、飯塚病院を離れて他の病院で勉強しようかと考えた時期もあったのですが、他にも様々な先生との出会いがあり、そうこうしているうちに色々な仲間が集まってきて楽しくなってきて、ここで続けようかなと決意できました。

ジェネラリストの道をさらに極める、病理を学びに大学院へ

>ジェネラルに診療を行う呼吸器内科医のロールモデルとの出会いが、靍野先生のキャリアを導いてくれたのですね。5年間飯塚病院で勤務された後、そのまま飯塚病院で勤務されながら長崎大学病理診断科へ社会人大学院入学、と大きなキャリア転換をされていますが、どうして病理学を学びたいと思われたのですか。

病理学は病理の先生がやるという、臨床の先生からすると一線を画すイメージがあるかと思うのですが、臨床をやりながら病理の知識を持って、色々な疾患を俯瞰して診ていくというのも面白いのかな、と思い、病理を勉強してみようと考えていたところ、長崎大学の病理学の先生をご紹介いただく機会があったんです。色々話していたら「勉強に来たら?」とさらっと言っていただけて。

>ここでもまた、素敵なご縁ですね!

はい。そのご縁で長崎大学病理診断科の社会人大学院生として入学し、病理を勉強させていただいています。呼吸器内科の飛野先生の出会いもしかり、多くの先生方との出会いがあって今のキャリアに繋がっていると感じています。出会いとご縁に感謝ですね。

>積極的に先生方と繋がっていく靍野先生のまさにジェネラリストらしい生き方が、数々の偶発的な出会いを引き起こしているんだろうなと感じました。少し話がそれますが、社会人として飯塚病院に勤めながら、大学院に通う日々はどのように過ごされていましたか。

そうですね、月曜日は福岡にある飯塚病院で外来をして、その後長崎に移動し、火曜日から金曜日までは長崎大学で勉強をし、土日で飯塚に戻ってくる、というようなサイクルで過ごしていました。

結婚、長男の誕生、変化するライフステージと働き方の調整

>その後、大学院を卒業し、本格的に飯塚病院の呼吸器内科に戻られた靍野先生。また、ご結婚、お子様の誕生など、ライフステージの変化もあったとのことで、子育てをしながらの医師生活はいかがですか。

周囲の子育てドクターのすごさを痛感する日々です…。変化としては、予想以上に自分の時間がなくなりましたね。

また、患者さんとの向き合い方が変わりました。これまで以上に患者さんとご家族との関係が気になるようになったと思います。自分や家族の死への意識をこれまで以上に持つようになったことで、医師として、患者さんの死についても向き合い方が変わったところがありました。どうしても医師生活が長くなるに連れて、患者さんの死というところで良くも悪くも慣れてしまう部分があってしまったのですが、患者さんのご家族にとってとても大きなイベントなのだと、改めて気が引き締まる思いです。

キャリアについては子どもが生まれたことでは大きく変わってはいませんが、自分も子育てをできるだけ行いたいという思いがあったので、なるべく家に帰れる時間を作るようになりました。以前は病院でだらだらと過ごしてしまうこともあったんですが、ちょっと早く帰って今日は一緒に寝ようかな、という感じで早めに帰宅する日もあります。そういった働き方ができるのも今の職場が、年休や半休が取りやすい雰囲気や体制があるからこそなので、そのありがたみを実感しています。

>制度があっても、周囲に気を遣って使えないという現場もまだまだ少なくないと思いますが、家族のためにお休みを取りやすいのは、とても素敵な環境ですね。ちなみに、育休は取られましたか。

私は当直明けは早めに上がらせてもらったり、帰れるときは早めに帰ったり、たまに連休や半休を取らせてもらったりして、あえて育休は取りませんでした。

育休の取得の有無は、各家庭での考え方、職場の雰囲気・理解などによって答えが分かれるかと思います。

現実的な話になりますが、基本給が特別高いわけではない中で、育休を取ると当直や外勤などの手当がなくなってしまいます。ご夫婦でドクターの場合は少し話が違うかと思いますが、自分の給料が生活に関わってきてしまうというところで、私が働くことをパートナーと選択しました。

周囲には育休を取ったメンバーはいて、自分のように年休や半休をうまく使いながら育児とのバランスを取っている方もいます。必ずしも取らなければいけないわけではないのかなと個人的には思っています。今後、医師の働き方改革で変わっていく部分もあるのかなとさらに期待しつつ、自分とその家族にあった選択を多くの医師ができるようになったらいいですね。

飯塚病院 総合診療科 公式サイトより「育休体験記」:
https://aih-net.com/sougou/program/essay/essay_ikukyu.html

時代の変化に対応していく病院なら、勤続しても変化できる

>初期研修から、大学院への国内留学、そして結婚、お子様の誕生、さまざまなキャリアと私生活のイベントを超えるなか、15年間、飯塚病院に勤続されている靍野先生。学びを求めて、あるいはキャリア形成のために、転院をされる方も多いかと思いますが、振り返ってみていかがでしょうか。

そうですね、気づけば15年も飯塚病院に勤務していて、飯塚が人生のなかで1番長く過ごした場所になっていました。元々はこんなに長くいる予定ではなかったのですが、15年もいれば、地域や病院への愛着も湧いてきますよね(笑)同僚もなんだか親戚のような、親しい存在になってきました。

同じ病院にずっといるのってどうなの?と思われる先生も多いかと思いますが、僕自身は、時代の変化に対応していく病院なら、ずっと同じ病院にいても、さまざまな変化が起こり、学びも多く得られると考えています。また、僕のように勤めながら大学院で学ぶのも1つの道としてあるかと思っています。

インタビューの最中、時折「出会いと縁に感謝したい」と仰っていた靍野先生。
ジェネラリストでありたい、病理学を学びたいと、自身から生まれた憧れや興味から、次のステップへと導いた先人たちとの偶発的な出会いの連続が1本のキャリアを紡いでいく。
本日の靍野先生との出会いもまた、Antaaの成長の節目となる、そんな出会いの可能性を感じるインタビューとなりました。

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