患者さんと恩師の出会いで気づいた目指したい家庭医療像 前編│医療法人おひさま会│荒隆紀 先生

医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、可能性を広げた先にある景色、そして、そこに至るまでの障壁や葛藤についてお話を伺っています。

今回は、近畿圏の医療法人おひさま会で、診療や理事業務を行う荒隆紀先生(家庭医)にインタビューを行いました。

前編では、荒隆紀先生の家庭医療に対する思いについて、じっくりとお話を伺いました。

>>後編 ”チャンスの前髪は思わず熱中したことに” はこちら

目次

かかりつけ医の課題感×地域実習での家庭医との出会い

Antaa 西山

本日はお忙しい中、ありがとうございます。これまでのキャリアでどんなところで悩まれたかやターニングポイントで感じたことなどお聞かせください。

初めに診療科を選択したポイントについて教えてください。

荒先生

元々自分がキャリアを始める最初の場所が、京都の洛和会音羽病院という総合診療やERで有名な研修病院でした。

自分は泌尿器科の次男だったので「何となく自分の家を継ぐのかな」くらいのぼんやりしたイメージしかありませんでした。その頃、興味があったのは循環器と呼吸器で、内科系をやってから開業するのかなと思っていました。

荒先生

そんな中、研修医2年目のときに呼吸器内科を回っていて、救急から紹介された患者さんで、肺がんの末期の方がいました。その患者さんは高齢の女性で、糖尿病や腎臓などの複数の部位をその病院の部長の先生に全部診てもらっていました。患者さん的には自分はしっかり病院にかかって診てもらってたという認識がありましたが、実際には胸水がたまって調べてみたら肺がんでした。

それを聞いた娘さんに「なんで、こんなに専門家に診てもらっているのに見つからなかったんですか?」と言われました。当時の僕は研修医でしたが日本のかかりつけ医制度は壊れてるというか、うまくいってないなというのを直感したんです。

Antaa 西山

キャリアの始まりである研修医の時期に、かかりつけ医とはという課題に直面されたのですね。

荒先生

その後、2年目の夏に地域実習で北海道の更別村国民健康保険診療所という所に行きました。そこは日本で一番古い家庭医の養成施設である北海道家庭医療学センターの1拠点でした。

診療所の所長の山田康介先生は、地域の人にすごく信頼されていて子供から大人まで幅広く診療にあたりますし、医療以外の問題にも積極的に取り組んでいました。例えば、村で不登校の問題があり、不登校をなくすために子供たちが生きる喜びを見つける活動を多職種とやっていたりしました。患者さんとの距離の近さと活動の幅にとても衝撃を受けまして、病院ではない”家庭医という医者”に、自分はなりたかったんだなと気づいたんです。

荒先生

そして、あらためて「本来の日本のあるべきかかりつけ医ってなんなのかな」と思ったとき、ストレートに家庭医の世界に入るのではなく、一旦専門医の世界を覗いてみる必要があると思ったんです。各科の中で急性期から慢性期の全臓器に関わる呼吸器内科の専攻医を1回挟んで家庭医になろうと思いました。

2年間研修していろんな繋がりが音羽病院の中でできていたので、普通の呼吸器内科ではなく、家庭医を意識した呼吸器内科として色々行動しました。医師3年目には整形外科の先生に頼み込んで整形外科の外来も1年間やりました。さらに皮膚科にも入って、皮膚を診る場合はどこに気をつけた方がいいですかと皮膚科の先生に聞いて回ってマニュアルを作ったりもしました。

普通の呼吸器内科からしたら「お前何してんねん」みたいな幅広いことをしてましたね(笑)。でもそれを許してくださったおかげで、1年間とても忙しかったですが充実した時間を送れました。

荒先生

その合間をぬって、家庭医の後期研修先の見学にもいきました。家庭医だと、プログラムとしては関東に結構有名なものがあり、東京のCFMDという藤沼先生のところに行ったり、亀田総合病院系列の亀田ファミリークリニックの岡田先生のところも見学に行きました。

その中で、滋賀県の浅井東診療所というところで家庭医をされている松井先生が「関西で北海道の姉妹プログラムを立ち上げるから来ませんか?」とお誘いしていただけました。関西圏で、滋賀の診療所から大阪赤十字病院という1000床規模の病院、金井病院という地域のコミュニティ・ホスピタルまでオールラウンドな経験ができるのが魅力的で最終的にそこを選びました。

家庭医の中で「閉じてはいけない」という想い

Antaa 西山

荒先生を知っている方は、「おひさま会の荒先生ね」と認識する方が多いのかなという印象ですが、おひさま会に入られたきっかけは何だったのでしょうか?

荒先生

まず、専門医プログラムを進めていく中で、家庭医はどこに行っても必要とされる存在だ、という確信を持ちました。カメレオン医者という表現をすることもありますけど、診療所なら診療所にフィットした医者になれるし、大病院でも大病院にフィットした医者になれます。そしてどっちの中だとしても自分は能力を発揮できるなという感覚も持てました。

また同時に、家庭医を1人作るのはすごく大変だということもわかりました。家庭医を量産するのもとても大事ですが、本質的には家庭医療のスキルを持った専門医だったり、家庭医療のスキルを持った看護師さんを含めた多職種をもっと量産することが日本の今の医療状況にとっては望ましいのではないかと感じました。

家庭医って全国で0.数%しかいないマイナーな医者で、このまま家庭医の中で閉じても駄目だなというふうにも同時に考えました。また、当時、自分としては、家庭医療はすごく良いことをやっている、と思っているけどなかなかまわりに伝わらないし、現場は結構人間関係やマネジメントに悩むことが多かったな〜と思います。

Antaa 西山

意外ですね。人の心だったり生活を診る事も多いからうまくやっているのかなという印象がありました。

荒先生

僕も初めはそう思っていました。

フェローシップと言われる後期研修のあとの研修で経営学を勉強したりもしますが、やはりどこまでいっても医者ですので本当の意味で組織を運営したりマネジメントすることには足りないのではないかと感じていました。でも、良い医療を提供したいなら、人や組織のマネジメントが絶対必要だし、そのためには経営全般を学ばなくてはいけないなと思い、MBAを取ろうという考えになってグロービスに通い始めました。

そしてあらためて自分の人生も振りかえりました。キャリアは家庭医の中だけで閉じず、家族もできたのでしっかり生活も回してかなきゃいけない…と思い、いったん家庭医だけの世界から出ようと考えました。関心領域として、自分はがもう少し深めたいなと思っていたのが在宅医療の領域だったので、たまたま、おひさま会に来たという流れです。しかも、おひさま会の理事長がグロービスの先輩だったのもあり、話も通じやすいし、自分の意向も理解してくれそうかな、と思って一職員として入職しました。

”家庭的な”スキルやノウハウを持った人や組織つくり

Antaa 西山

おひさま会に入ってからは、どういったことをしているのでしょうか。

荒先生

はじめは、おひさま会の中でそんなに長期間滞在するつもりはなく、何年か勉強させてもらおうみたいな感じでした。しかし、MBAでの学びを通して、自分のやりたいことを、まずできる範囲の中で行動していこうという思考に変わってきました。そこで、まず、この組織を変化させるために、自分が何ができるのかを考えたときに、人が育つような場所や仕組みを作ることが必要だと考え始めました。元々家庭医の世界も教育の仕組みがしっかりしていたし、自分の中でも「組織や人育て」ということに興味があったので自分の中では色々なことがつながっていきました。

はじめは院内の個人的な勉強会や研修会といった側面から組織の運営側に入って行きました。理事長も「どんどんやりな」といった感じの寛容な方だったことも大きかったです。結果的に、3年目にクリニックの管理者になり、4年目に法人全体の人事の責任者になりました。

荒先生

おひさま会の取り組みの一番根っこの部分の強みは「単に患者を増やすこと」や「家庭医を育てること」ではなく、「家庭医療学的なスキルやノウハウを持った人や組織を量産し、真の意味で顧客の満足度を上げる」というところだと思っています。そして、それがこの日本社会において一番難しいけど望まれてることじゃないかという発想でやっています。そのために様々な活動を行い、多くの人を巻き込んでいく勢いがあるように感じています。

>>後編 ”チャンスの前髪は思わず熱中したことに” はこちら

荒隆紀|家庭医
新潟大学卒業。洛和会音羽病院にて初期研修後、同院呼吸器内科後期研修。関西家庭医療学センター家庭医療学専攻を経て、現在は医療法人おひさま会の理事を務める。

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