医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、可能性を広げた先にある景色、そして、そこに至るまでの障壁や葛藤についてお話を伺っています。
今回は、広島大学病院で整形外科の診療と大学院で基礎・臨床研究を行う橋口直史先生(広島大学大学院医系科学研究科整形外科学)にインタビューを行いました。
後編では、橋口直史先生の行動の原動力について、じっくりとお話を伺いました。
>>前編『”人生の扉は他人が開く” 偶然の出会い × 探究心から培われる独自性』はこちら
開業医に博士号はいるのか?
橋口先生のこれまでのさまざまな出会いや行動が、やはり今につながっているということが理解できました。
後半では、「これから」という視点で、未来のことも伺ってみたいなと思うのですが、どのタイミングで実家を継ぐのかであったり、逆にそれまでにこれはしておきたいとうことだったりを伺えますでしょうか。
もともと、広島大学を卒業してからは東京か大阪で研修を行って、後期研修くらいまで終わったら実家のある鹿児島に戻ろうかなと思っていたのですが、後期研修が終わる頃、改めて進路を考えたとき、整形外科医としては手術をたった4年ほどしか経験していないのに鹿児島に戻ったとしても、自分自身の手術のスキルや知識では集客は難しいし、自分としても満足できないだろうなと感じました。
そこで一度大学に戻り、基礎研究や学会発表、論文作成などを行って、整形外科医としての実績を積み、整形外科医としての「深み」を持つことが、鹿児島に帰るときの自信になるんじゃないかなと考えました。そんな時に、広島大学整形外科の安達伸生教授から快くお声を掛けていただき、入局しようと決心しました。
よく「開業医には博士号ってあまりいらないんじゃないですか?」と聞かることもあります。しかし私の意見としては、臨床医だけでなく研究医としても経験を積んで、多くの視点を持っていないまま開業医になると、どうしても視野が狭くなってしまうと思っています。
開業医になると、自分が院長で、そこにスタッフがいて、完結してしまう世界になる。さらに単に治療を行うだけでいい訳ではなく、経営についても考えなければならない。そうなると私の場合、自分の整形外科医としての向上心が止まってしまうかもしれないと思うので、開業医として院長になっても、「研究者からの視点は?」「疫学者からの視点は?」さまざまの視点を自分のなかに持つことで、自分の世界だけで完結させないようにしたい。今は、さまざまな視点を持つために、いろいろな経験をしておくことが大切かなと思っています。
そうやって、あれもこれもと選択肢が増えてきてしまって、当初の構想とは結構変わってきてしまってますが(笑)
鹿児島の実家を継ぐという目的の部分はぶらさずに、橋口先生自身が院長になったあとに、必要になるものを今から準備するために、行動しているのですね。
そのとおりですね。一旦の目標としては、鹿児島に帰って親の跡を継ぐというのは、ぶれずにあります。ただ、別にそれが最終目標ではないので、その後、自分は何ができるだろう、何がしたいんだろう、そこから今どういう準備をしておくとよいだろうということを常に考えています。
あらためて自分が本当に何をしたいのか、最終目標はなんだろう、というところを考えてみると、そのベースとなることが2つあります。
1つ目は変形性膝関節症のことをもっともっと知りたいという”探求心”です。「なぜ変形性膝関節症は起きるのか」「どんな人が変形性膝関節症が悪くなるのか」など、自分の中で出来る限り整理をつけたいです。
2つ目は、やはり生まれ育った鹿児島の医療に貢献したいという思いです。鹿児島の医療に貢献するためにいまの環境でできる限りのことを習得して、帰ったときにそれを還元するというのが最終目標です。そして親父超えをしたい、みたいなところですかね(笑)
医師としてキャリアを積むほど感じる、父の足跡
親父超えいいですね。
小さい頃、父は整形外科医としての仕事で忙しく、遊んでもらった記憶があまりないんです(笑)。それでも今でも尊敬していますし、遊んでもらった記憶があまりないからといってそんな父が嫌いだったとかは一度もないです。
むしろいま整形外科医になって、父のいる世界に近づけば近づくほど、父の整形外科医としての凄さがわかってくることもあります。父はずっと鹿児島で働いていますが、日本臨床整形外科医会という開業医の先生方が所属されている全国学会で長年精力的に活動しており、東京などの県外の先生方が「お父さんのことは知っているよ」と言ってくださることがあります。
小さい頃は、父がそういった活動をしていた事を全く知らなかったのですが、自分が医師になり、年数を重ねるほど、整形外科医としての父の活躍を目の当たりにして、尊敬が深まっています。だからこそ追い付き追い越したいという気持ちもありますね。
「人生の扉は他人が開く」
お話を聞いていてあらためて行動力がすごいなと思うのですが、それはご自身ではどこから来ていると思いますか。
劣等感が原動力だと思います。
例えば中学校・高校はラ・サール学園だったのですが、周りの人にすごいねと言われることがあったとしても、高校の校内順位では普通にもっと上位が沢山いましたし、上には上が居るしなあと思っていました。
私は周りの環境に左右されやすい部分があって、ラ・サールにいたからこそ、劣等感を感じて満足せずに上を目指せたし、医学部にも行けたかなと考えています。常に高いところを目指すことで、刺激を与えてくれる人たちと同じ環境にいることができ、劣等感が自分も努力させる。そしてその結果が自分が目指していたものでなかったとしても、気が付けば周りがすごく評価してくれる位置まで達成できていると感じています。
余談になるのですが、「エド・シーラン」というイギリスのシンガーソングライターでグラミー賞を何度も受賞されている歌手がいらっしゃいます。そのエド・シーランさんがTVのインタビューで、アデルという同じく大物歌手がアルバムを2千万枚売り上げた記録をあなたは抜けるのか?と聞かれたときに、「多分私はアルバムを2千万枚売ることはできないでしょう、そして決してアデルのように大物歌手にはなりません。しかし頂上を目標にしなければ、どうやってその途中までいけますか?」と話していて、自分の考え方、生き方に似てるなと共感しました。
常に頂上を目指す、ちょっと無理かもしれないっていうところを目指してた方が、結果的には途中までだとしても、成功するという考えが行動の原動力です。
最後に今キャリアに悩んでいたりする若手の先生に向けて、橋口先生からメッセージを一言いただけますでしょうか。
キャリアや人生を考えるうえで、「人生の扉は他人が開く」という好きな言葉があります。これは、福島医科大学の学長でいらっしゃった菊地臣一先生が、福島県立医科大学のHPに寄稿されているお話に出てくる言葉です。一部を引用させていただくと、『人生の扉は他人が開いてくれるのです。若い時は、「努力すれば必ず報われる」、「自分の努力こそが人生の道を拓いてくれる」と思うものです。私もそうでした。しかし、事実は異なります。他人から高い評価を受けるには、先ず他人への感謝の気持ちが先ず先です。人は独りでは生きていけないのです。世間では我々は人との関わりのなかでしか生きていけません。自分独りの力で生きていけるというのは錯覚です。』
自分の人生というのは自分が決めるものだけではなくて、周囲の人から手を差し伸べられることによって決まっていくので、その繋がりを大切にしましょうというお話です。
自分のキャリアはこうしていきたいとある程度決めておくのは大事なのですが、その道の途中途中で出会った人との会話の中で、こういうふうにしていきましょう、こういうふうにやりませんかと言われること、誘われること、提案されることに対して常に意識を傾け、なにかしらのアクションを起こしていく。すると今まで思ってもいなかった良い方向に進んでいけるなと、自分のキャリアを通して実感しています。自分の人生の扉を開いて下さった方々には感謝してもしきれません。
>>前編『”人生の扉は他人が開く” 偶然の出会い × 探究心から培われる独自性』はこちら
橋口直史|整形外科
ラ・サール学園・広島大学卒業。 大阪の淀川キリスト教病院で初期・後期研修後、現在は再び広島大学大学院医系科学研究科整形外科学で博士号を取得を目指しつつ、広島大学病院にも従事。また実家は鹿児島の開業医で将来的には家業を継ぐことを考えている。