「あなたの人生最高だったよ」最期の瞬間まで関われる存在になりたくて 前編│ファミリーヘルスクリニック北九州│進谷 憲亮先生

医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、そこに至るまでの障壁や葛藤、そしてその先にある景色についてお話を伺っています。
今回は、福岡県北九州市で家庭医療を担うクリニックを開業する、進谷 憲亮先生(ファミリーヘルスクリニック北九州/院長)にインタビューを行いました。
前編では、進谷 憲亮先生のキャリアの歩みについて、じっくりとお話を伺いました。

>>中編『病院の外にある人の暮らしの大切さと叶えたい社会』はこちら
>>後編『まさに今がターニングポイント!ともに育みともに育つ仲間を求めて』はこちら

目次

医師を目指したきっかけとなる、先輩との早すぎる別れ

Antaa 加藤

医師を目指したきっかけを教えてください

進谷先生

元々、「絶滅危惧種を救いたい」って本気で思っている動物大好きな小学生で、生き物が大好きすぎて「生き物を絶滅に追いやる人間なんて」っていう激しめの思考を若干持っていて、でも人間である友達は大好きだし、という矛盾もありつつな小学生時代を過ごしてました。
でもある時、動物図鑑にヒトという種目が動物として掲載されていて、僕は動物を救いたいとかいいながら動物である人間を絶滅してもいいって、なんか不思議な矛盾を持っていることに気づいたんですよね。人間には人間の理由があるのかもしれないなみたいな、すごい壮大ですね(笑)

Antaa 加藤

なるほど、ハードですね(笑)

進谷先生

ですよね(笑)
そこから成長とともに自分の思考が集約されていって、中学生のときは友達に助けてもらったっていう経験がすごく多くて、その影響が大きいかもしれません。
地元は苅田町っていう地元愛が強いところで、中学生の自分は生涯通してこの地元にいるなっていうイメージを持っているくらいに大好きでした。
振り返ってみた時に一番影響を受けた原体験は、1個上の先輩が高校にあがった時に事故で亡くなってしまったことです。

進谷先生

小学校の時から一緒にバスケをしていて、結構田舎だったんでヤンチャな先輩方なんかもいたんですけど、真面目・ヤンチャ問わず本当にみんなに慕われる素敵な先輩でした。
お葬式の時に棺の中で先輩の顔の上に白い布がかかっていて、先輩のお父さんが名前を呼んで泣き叫んでる、同級生や友人たちが棺の前で号泣している光景が、今でも自分の中に鮮明に残っています。
あんなにみんなに慕われていて将来を楽しみにされている人がこんなに簡単に死んでしまうのか、そして残された人が深く悲しむという死の現実を受け止める中、自分の仲がいい友達にもいつかは死がやってくるのでは…と、すごく死を身近に感じたんですよね。

進谷先生

先輩の死というものを経験する中でいろんな思いがあったんですけど、死を身近に感じ始めた時に、周りのみんなが亡くなるときに最期の最期までそばにいれたり、亡くなった後もその残された人たちに関われる存在でいたいなと漠然と想いはじめました。
僕の友達が亡くなるときには、ずっと仲良かった僕が「お前の人生最高だったよ。お疲れ」って笑顔で言えたら、その友人の人生は最高なんじゃないかなっていうふうに思ったんですね。それは残された人たちにとっても最高になるんじゃないかっていうふうに思えて、人が亡くなる瞬間まで関われる存在っていうのが僕の中での“医者”でした。
こういう原体験って当時そこまで明確に言語化はできていなかったんですが、振り返ってみるとという感じではあります。

進谷先生

死への価値っていうのがちょっと変わってるのかもしれないですけど、僕は”想い続ければその人は生きている”みたいなところがあって。その方はその歳で亡くなったとしても、その方の想いを僕が今どう話しているかっていうことで、今も生きててもらえている感覚を持っています。
だからこそ、先輩の死というお話ですが、あんまり包み隠さず講演会とかでもお話をさせてもらってます。

Antaa 加藤

「最期までそばにいる」ことを大切にされているのは、そういった背景があったのですね。

おばあちゃんからの言葉「医者になるなら、ろくな人間になれ」

Antaa 加藤

医師を目指した原体験から、診療科目の選択はどのような思いで選ばれたのですか?

進谷先生

結論からすると、選択しないという選択をした結果、今に至っている感じです。
そもそも医学部に入った時点ですごく勉強できた人間ではなかったんですが、そういう価値観で入ったので、もう全部楽しいんですよ!実際に実習で患者さんを診たり、一緒に喋るのが楽しくて。
でも結局、何科がいいかって言われても全然ピンとこなかったんです。
臓器で患者さんを診たいわけでもないし、たとえば、心臓は関心はあるけれども、やっぱり心臓以外も診たいもんな、みたいな。なんなら、小児診ていてその子が大人になったら診なくなるのかというと、そういうのも嫌。
なので、とりあえず初期研修のときは何科とか決めず、”ただ自分がどうありたいか、何ができるようになっていたいか”っていうことを大切に考えるようにしました。

進谷先生

医師を目指し始めた頃に、教師だった母方のおばあちゃんから、医者になる上でこの二つは大事にしろと言われた言葉があります。
一つは「先生と呼ばれる人間にろくな奴はいない。だから、ちゃんと医者を目指すなら、ろくな人間になりなさい」
学校の先生をやってるおばあちゃんから言われて、すごい重みがあって(笑)
もう一つが「あんた、お医者さんになるならね、あの飛行機の上でお医者さんはいますかってアナウンスがあったときに、自信持って手を挙げられない医者にだけは絶対なるな」って言われたんですよ。
二つの言葉をずっと覚えています。

Antaa 加藤

おばあさんの教え、進谷先生の根底にある大切にされている軸に通じそうですね。

進谷先生

そうなんです。自分がまずどういうことを初期研修医のときに経験したいかなっていうのを考えたときに、環境が揃っている病院の中だけではなく、一歩外に出て手元に何もない身一つの時に、目の前で人が倒れても何もできない医者というのはすごいかっこ悪いな、と。
それが経験できるのは、個人的に条件が二つあって、救急という病院の場と、もう一つ、医者が少ない環境として僕の中で島嶼(とうしょ)だと考えました。
そこで、初めからこの二つを掲げている東京都立多摩総合医療センターを選びました。
福岡育ちの僕が東京に行った経緯は、とりあえず大学という枠から離れて視野を広げてみたいって5年生の冬に思い立ってですね(笑)
初期研修中は全ての研修の中で目の前の患者さんに熱中する!3年目は島に行く!っていう想いでやってきていました。

進谷先生

でも、やっぱり初期研修を終える頃も自分の中で診療科を絞れなくてですね。
そうこうしている時に、東京都立多摩総合医療センターが家庭医療総合診療科の専門コースを作ろうとしていて、何科か決まっていないなら後期研修はそのコースに乗っかってみたらと言われて、何か新しいことを作ることのきっかけになれるなら、と選択したのが家庭医になったきっかけです。
自分の好きな科目をローテーションで受けていくっていう流れだったのも良かったです(当時は総合診療部の病棟もありませんでした)
だから、あまり自分の中で専門科っていうのを意識してきたことが本当に一度もなくて、その都度その都度学びたいことを学べる環境があったと思います。

進谷 憲亮|総合診療科、家庭医

福岡県苅田町出身
2013年 医学部卒。東京都立多摩総合医療センターにて初期研修及び救急総合診療専門臨床研修修了。2018年、特定非営利活動法人ジャパンハートの長期ボランティア医師として1年間カンボジアでの医療活動に従事。2019年、帰国後は東京都の武蔵国分寺公園クリニックで家庭医として子どもからご高齢の方まで年齢問わず外来診療・在宅医療に携わる。2021年3月に家庭医療専攻医研修を修了し、2021年4月より福岡県済生会八幡総合病院総合診療科医長を務め、2022年1月より北九州市八幡西区本城地区で新規開業。


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