医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、そこに至るまでの障壁や葛藤、そしてその先にある景色についてお話を伺っています。
今回は、奄美大島の大和村で、離島医療・地域医療に10年従事されている小川信先生(国民健康保険大和診療所/所長)にインタビューを行いました。
前編では、小川信先生のキャリアの歩みを紐解き離島医療に出会うまでについて、じっくりとお話を伺いました。
>>後編『教科書に書いてないことを地域から学ぶ、それが離島医療』はこちら
救急医→外科医→国際医療、行動し続けた先のキャリア
小川先生は現在、奄美大島での離島医療に10年間たずさわっていらっしゃいますが、まずは小川先生が最初に「医師を目指そう」と思ったきっかけについて教えて下さい
生まれは福岡の街なかの天神というところで、もともと父親が外科医、実家が外科の病院だったんですね。
救急車が毎日のようにやってきて、搬送されてくる患者さんもたくさんいる、緊急手術もしょっちゅうある、そういう環境で育ちました。父親が処置後の血だらけの服で家に戻ってくる、ということもあったりして(笑)
患者さんの姿も目にするし、患者さんから感謝される父親の姿も見る。そういう環境の中で、素直に父親が格好いいと思いましたし、父親のようになるんだ、自分も外科医になるんだ、と、自然と医師という進路を志すようになりました。
なので、医師になるというところまでは迷わなかったんですけど、どんな医師になるかということについては、学生時代からいろいろ考えたりもしました。それで思ったのは、何でも診れる医師になりたい、と。そう思って、周囲に相談したら救急医がいいよと勧められて救急医を目指すことにしたんです。
当時は救急医になるためにはサブスペシャリティ、つまり脳神経外科だとか、整形外科だとか、どこかに一度、軸足を置かないといけない。サブスペシャリティをどうするかと考えたときに、やはり父親のように広く外科領域を診れるようになろうと思って外科を専攻しました。
医師としての最初の5年間は、外科医として東京の病院に勤務していました。でも実際に外科に行くと、救急より外科のほうが楽しくなっちゃって(笑)
それで、救急は一度目標から外れることになりました。
そうして医師としてどういうキャリアに進むか、ということを改めて考えたときに、思ったことがありまして。
実は僕は、もともと国際医療協力に興味があったこともあって、学生時代や卒業してから1年間、医師として就職せずにバックパッカーで海外のいろんな地域を旅行してたんですね。
そうなんですか! どんな国を旅行されたんですか?
最初に訪れた国はインドでした。ロシアやヨーロッパ、東南アジアの国々も回りました。安宿でトコジラミに噛まれたりしながら(笑)いろんな国を訪れました。
ヨーロッパではしばらくアイルランドの語学学校に籍をおいていたりもしていたんですが、ヨーロッパの地域の人たちというのはやっぱり人種が違う人たちなんだなぁ、なんて思ったりもしていました。
ところが、アジア人である、インドネシア人、中国人、韓国人、そういう人たちと話していると、相手が自国の言葉で喋っていて、自分はその言葉を全然知らないのに、なぜか話している内容が何となくわかるんですよね。やっぱり彼らと僕らは近しい関係なんだなということ、それをすごく実感した、貴重な体験でした。
そういう経験もあって、救急医ではない医師の道を模索することになった時、東南アジアはまだ当時は発展途上国でしたから、そういう地域で外科医として、アジアの架け橋になるような国際医療協力、地域医療に貢献したいと思いはじめたんです。医師4年目の頃、2か月間ベッドフリーになれる期間をもらえたので、タイに行って現地の診療を見学したり、国際医療協力の授業を受けたりしました。
そのまま海外で働き続けよう、と考えたりしたこともあったのでしょうか?
それがですね、そういう国際医療にたずさわっているうちに、これは医療という切り口だけではどうにもならない、発展途上国の医療の問題は、もともとの貧困問題という面がよくならないとどうにもできないという感想を持ったんですね。それは自分のような医師一人の力だけではどうにもならない、世界保健機関だったり、世界銀行だったり、そういう大きな機関が関わっていかないと進まないなと思いました。
でも、大きい機関に自分が飛び込んでいくとなると、今度は直接患者さんを診れなくなってしまう。僕は手術とか、実際に直接的に患者さんに関わることがしたいと思ったので、国際医療についてもどうしようかと悩むことになってしまいました。
救急医を目指す過程で外科の面白さにふれ、国際医療の活躍のフィールドを広げてなおキャリアの方向性を模索し続ける、悩ましい時期でしたね
そうなんです。
そんな、いわば行き詰まっていたようなタイミングで、本当にたまたまですけど、当時在籍していた病院の関連施設へ3か月だけ行ってみないかと声がかかったのが奄美大島だったんですよね。
縁もゆかりもない島でしたが、試しに行ってみるか、とりあえず何でもやってみるか、という感じで飛び込むようにやってきたのが、それが結局、人生を変えました。
本当に偶然の出会いが大きなターニングポイントになったんですね!
教科書だけではわからない、奄美大島で身をもって知った本当に”やりたかった医療”
初めて行った奄美大島の診療はどのようなものだったんですか?
僕が行ったのは奄美和光園という、奄美大島のハンセン病療養所でした。人が足りなくなり、3か月の期間限定で赴任することになりました。
ご存知かもしれませんが、ハンセン病は現在では感染も発症もとても稀になり、療養所でも今現在進行形でハンセン病に罹患している人たちは誰もいなくて、過去に感染していた患者さんの高齢化が進んで、医療というよりは老人ホームのような、介護、福祉というような実質的な側面ももつようになりました。患者さんが100人くらいいて、医師は僕ともう一人の2人でした。
それまでいた新宿にある国立国際医療研究センターは、外科医だけで26人いて、患者さんに会うのは朝の6時過ぎと夜の9時前とかで、後はずっと手術室に入っている。そんなだから、あんまり患者さんとゆっくり話すという機会もありませんでした。
それまでの病院と離島とではとてもギャップがあったんですね。
そうなんです。奄美大島に来たとたん、もちろん手術はありませんから手持ち無沙汰になる。そうすると、患者さんに会いに行く、患者さんと話す時間がとても多くなる。この人はどういう人で、家族がどうこうとか、そういうのも詳しく知って、患者さんと親しく付き合っていくという。
患者さんとの向かい方だったり、関わり方、それがすごく楽しかったんです。
僕が医療でやりたかったのはこういうことだったのかなと思いました。
ちょうどその頃、急に進路が変わった台風が島を直撃したことがあって。
療養所の入所者さんで、通院できる方は自宅に住んでるんですけど、自宅の重い雨戸が締められないとか、そういう方もたくさんいて、そんな患者さんたちの家を回って雨戸を締めて回ったりもしました。スタッフみんなでレインコートを着て、大きな声を出して、こっちだー、みたいな感じで。現在いる大和村でも、台風の後、トタン屋根が道路を塞いでしまって車が通れなくなっているのを、役場の方とかでなく地域の人が声をかけあって集まって、あっという間に撤去されて道路がまた通れるようになったり。
この経験がきっかけで、災害医療もやろうと思ったんですよね。
台風! 確かにそういう事情だと、離島では地域医療に加えて災害医療にも深く関わることになるんですね
離島の医療というのは、いわゆる地域医療の典型です。予防について知ってもらい、医療が必要になって病院にやってきて、それが治れば自宅に、地域に戻り、その人の社会復帰をするお手伝いをする。そういう地域医療が、まさにこの奄美大島にあったんですよね。いつかはここに戻ってきて医療をやろうと思いました。
日本でもこういう医療ができるんだということは、その時に初めて知ったことでした。ちょっと気づくのが遅かったかもしれませんが(笑)
教科書的にはもちろん知識はあったんですが、身をもって感じたという。
離島医療こそが自分の道、専門性は作らない選択
奄美大島から戻ってきてからの10年間は、その時の経験を元にしながら離島医療に従事することを見据え、外科医を続けつつ、総合内科、在宅医療、緩和ケアの勉強もしました。離島に行くなら必要になるだろう、と思って、産科にも行って帝王切開をできるようになって。整形外科もですね。
とても広く勉強されていたんですね。かなりアクティブにご自分から動いていった感じですか?
そうですね、僕は外科医として偉くなりたいとかそういうのはなくて、奄美大島の経験から、いつかはここで本格的に離島医療をしてみたい、と思っていたので、専門性は作らずに、あえて広く浅くを意識していました。大学院にも通いましたし、災害医療の勉強をするためにDMATの研修もしました。
そうして、医師16年目からこの奄美大島の大和診療所に赴任して、やっと離島医療に従事したんです。大和村に世話になって、今年で10年目になります。
小川 信|外科、総合診療科、緩和ケア科
福岡県福岡市出身
1999年 東京慈恵会医科大学卒業。卒業後1年間バックパッカーで世界を周る。国際医療研究センターで外科レジデントを経験後、離島医療に出会い、産婦人科、緩和ケアなど幅広く研鑽を積み、2015年より家族で奄美大島へ転居し、現在の国民健康保険大和診療所に従事。