コロナ禍だからこそ気づけた、「欠乏感」からの解放、没頭する大切さ 後編│津山中央 病院│藤田浩二 先生

医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、可能性を広げた先にある景色、そして、そこに至るまでの障壁や葛藤についてお話を伺っています。

今回は、岡山県で総合内科・感染症内科として地域の社会システム構築にも取り組まれている藤田浩二先生(津山中央病院/(総合内科・感染症内科)にインタビューを行いました。

後編では、藤田浩二先生の仕事や人との向き合い方について、じっくりとお話を伺いました。

>>前編『学生時代、とことん掘り下げた自分年表が今も指針になっている』はこちら

目次

欠乏観が人を足踏みさせる

Antaa 加藤

“ない”という感覚があるからこそ悩みが発生するというお話、非常に共感しました。こちらについて、もう少し詳しく伺えますでしょうか。

藤田先生

先ほどお話しした「無い」という感覚は、解決策がない、マンパワーが足りない、知識が不足していると感じる「欠乏感」です。そういった「無い、無い」という感覚は人を足踏みさせます。

その中である意味、楽天的に、欠乏感にいちいちこだわらないという感覚はとても大事で、それを専門用語でネガティブ・ケイパビリティと言います。
要するに、不確実性の中でも前向きに進む力なのですが、欠乏感に縛られず、「無いから何が悪いの?」というスタンスまで開放できるかが大切でこの強さが必要です。

実際には、どこかに必ず必要なものは存在します。無いと思い込んでいるのはたいていマヤカシです。そして、無い感覚と、アクション起こさないことは、もともと別事象であり、本来切り離せることなのです。多くの人はついつい無い感覚とアクションを起こさないことを連動させてしまっています。

藤田先生

私自身、その欠乏感から脱することができた時に、ものすごく物事が前に進みやすくなりました。実際にとりあえず前に進むと、思いがけない助言をもらえたり、思いがけない人々と出会ったり、周囲のサポートを受けられるようになったりしました。
また、誰かが何気なく発した言葉が、実は「それはずっと探していた言葉だ!」と思えることなんかもあります。

欠乏感に打ちひしがれていると、自分に必要な情報が何気ないところに転がっている問題解決の可能性に気づかないことになってしまうのです。

Antaa 加藤

藤田先生のマインドが変わってきたときに、周りの人々へはどのように伝えていったのでしょうか。

藤田先生

欠乏感に縛られないという感覚と、必要な情報は必要なタイミングで出てくるから最後はどうにかなると言う感覚を周囲に伝えて、あとはひたすらアクションを起こすだけです。

現場でよく起きがちな感覚としては、「なんでわかってくれないんだ」「何で状況が変わらないんだというがあると思うのですが、実はこれらは先程触れた欠乏感をベースにした考え方です。かみ砕くと「言うことを聞いてくれない」「理解してくれない」思ったようにやってくれない」というのは、「勝手に自分が思い込んだ完璧さ(偽りですが)」に程遠いとか、「物事を完璧に達成出来る力がない」という欠乏感をベースにした怒りの感覚です。

藤田先生

ここでもある程度の開き直りが必要で、「自分ができる最大限の情報提供をして、理解できる人がそれを実践すればいい」、「あとは勝手に整っていく」という大きな流れに委ねる姿勢が結果的には一番調和的で、一番成果産物が大きいと思います。

委ねる大切さの理由として、どんな人でも話を心底理解するにはタイミングもあると考えています。例えば、コロナ禍前の自分が、いまの自分が喋っていること理解できているかというときっと理解できない気がします。だから、相手が今ここで私の言葉を理解してくれなくても、5年後にでも(その人の理解のタイミングで)理解してくれたらそれでいいじゃない、ということです。それぞれの中で、それぞれのタイミングで理解が始まることを信じて委ねる。だから、全員同時に今理解が揃う必要がそもそもないと思うのです。

コロナ禍を経て感じた自己犠牲から脱却する意味

Antaa 加藤

今までキャリアのさまざまなポイントを歩んでこられた中で、家族やプライベートの両立に関して苦労した点や、それに対する向き合い方、工夫などがありますか。

藤田先生

私は仕事とプライベートを両立ができなくて困ってきたタイプです。

家のことはほったらかし、なんなら自分のこともほったらかしにしながら、仕事を最優先するというパターンで進んできたと思います。

ちょうど私たちの世代や少し上の世代は、働き方改革などとは無縁の世代で、医師に関わらずどんな業界の人たちも不眠不休で働いてきました。特に私達の親世代は戦後の日本を発展させるために奮闘し、一生懸命に働いてきた世代です。当然、その影響を私たちも受けていて、私も若いころは当直明けに帰宅することはほとんどなく、連続勤務や休日出勤は当たり前で、そのことに疑問を持つことすらありませんでした。

藤田先生

しかし、時代は大きく変わり、価値観も大きく変化してきたと思います。各自が無理をすること自体がやはり色々な歪みを生んでいるなというのは自分自身もすごく感じるようになってきました。

そのひとつは、自分も40代後半になり年を重ねると、20代のようにはいかなくなったことです。どうしても疲れも残るし、無理がきかなくなる、頭も回らなくなってきます。
また、疲労がたまった状態でいると、仕事のパフォーマンスだけでなく、自分自身に対しても他人に対しても”絶対に優しくなれない”です。まず自分に優しくもなれないから無理をするんでしょうけど、人に対しても優しくなれなくなります。怒鳴ったり暴力を振るったりするレベルではなくとも、生活の中でイライラしやすくなり、近寄りがたい雰囲気を持つようになったり、言葉にトゲが出たりします。

こういったことが増えることはは反応としては害だと思うのです。このことを大きな視点で見てみると、世の中全体で一つの大きな絵が形成されるとした時に、私達一人ひとりはその絵を構成するパズルのピースになります。そうすると、個々が自己犠牲で傷ついて行くと、パズルのピースがそれぞれ傷ついて色褪せて行くことになります。結果として、絵全体がバランスを失うことになります。つまり、自己犠牲は長期的には社会貢献にならないことになります。

藤田先生

自分を犠牲にして他人のために尽くすことは、多くの日本人に共通する美徳であると思いますし、先人の努力を否定するつもりはありません。これまでは、その美徳が必要だった時代の流れがあります。単に、現在はその流れとは異なるタイムラインに乗った時代にあると言うだけです。

ですので、極端な話で語弊がある言い方になるかもしれないですが、自分が本当にやりたいことに没頭し、自分を穏やかに保つことはそれだけで社会貢献だと思います。

私は、以前は働き方度外視で残業して自分の子供や家族もほったらかしに仕事をやってきた典型的なワーカホリックな人間でしたが、今回のコロナ禍を経て価値観が大きく変わりもう自己犠牲をする必要ないなと、今でははっきり思っています。

Antaa 加藤

年を重ねることで、自分の価値観を変えることは難しい側面もあると思いますが、自分自身の変化や柔軟性はどこから来ると感じていますか?

藤田先生

元々、良い意味で負けず嫌いな一面がありました。

なので困難な状況やうまくいかない時にも、「諦めずに前に進もう」「できるはずだ」という気持ちが強かったと思います。ただ、若いころは目の前に立ちはだかる課題と言うか人生の壁を真正面からぶち壊すような突破の仕方を選びがちだったと思うのですが、冷静に考えると、壁は壊さなくてもよく見ると簡単に開く扉がついているとか、上を見れば簡単に登れるはしごがついているとか、もっと穏やかに、調和的に課題を克服する知恵を使うほうがもっと楽で、創造的だなと思うようになりました。

キャリアに悩んでいる先生に向けてメッセージ

Antaa 加藤

最後に、今キャリアに悩んだり悶々としている先生に向けて、一言メッセージをいただけますでしょうか。

藤田先生

これまでの話を短くまとめると、自分が没頭できること・ワクワクできることに没頭するだけで十分だと思います。

先程のパズルの全体像の話に戻りますが、自分のことを差し置いて全体のために頑張るなんて思う必要はなくて、まずは自分がパズルの1ピースとして最大限輝くことに全エネルギーを注ぎ込むことだけ考えて行動すればよいと思います。それが結果的に全体の絵を輝かせると思うのです。

例えば外科で手術が好きでなら心底手術に没頭すれば良いと思うのです。救急車対応が好きなら救急外来業務に没頭すれば良いと思うのです。好きで得意なことに心底没頭しているうちに、大きな影響力を発揮出来る様々な技量がついてきます。結果として必要なものが社会貢献を伴って勝手に整ってきますというのが僕が伝えたいメッセージです。

究極的には、他の人のことはどうでもいいです。隣の人が何をやっていようがいちいちそれに自分を合わせたり、操作的な介入をしたり、腹を立てて文句を言ったりする必要はないのです。先輩が右に行けって言ったからといって右に行く必要はない。偉い人がが左に行けって言ったからといって左に行く必要もないのです。自分が心底行きたい方向があったら思いっきり進んでください。僕はそう思っています。

>>前編『学生時代、とことん掘り下げた自分年表が今も指針になっている』はこちら

藤田浩二|総合内科・感染症内科
京都薬科大学薬学部薬学科卒業後、岡山大学医学部医学科に入学し卒業。初期臨床研修時代を津山中央病院で過ごし、その後亀田総合病医院で総合内科や感染症科で勤務、2017年より再び岡山県の津山中央病院にて総合内科・感染症内科部長、卒後診療研修センター長に従事。

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