医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、そこに至るまでの障壁や葛藤、そしてその先にある景色についてお話を伺っています。
今回は、奈良県の奈良県立医科大学附属病院の呼吸器外科の診療科長をされている濱路 政嗣先生にインタビューを行いました。
前編では、濱路 政嗣先生が医師を目指されてから海外留学するまでについて、じっくりとお話を伺いました。
>>中編『メイヨークリニックへの臨床留学で痛感した英語の大変さと勉強法』はこちら
>>後編『日米の医療現場で学んだ働き方の違いと、奈良県立医科大学での新しい挑戦』はこちら
祖父母の期待がきっかけで医師を志した幼少期
医師を目指したきっかけを教えていただけますでしょうか?
個人的な理由になりますが、私自身が祖父母のことがとても大好きで、祖父母が私に医師になってほしいという思いが強かったからですね。祖父母は和歌山に住んでいましたが、私は当時大阪に住んでいて、祖父母がよく遊びに来てくれましたし、祖父母の住む和歌山の白浜にはよく遊びに行きました。
そうだったのですね。そして京都大学医学部に進まれたのですね。
はい、そうですね。結果だけ見ると難関大学に合格したことになりますけれども、別に京大にこだわっていたわけではなく、たまたま中高一貫校に行っていたので、その流れで京大に進学したという感じです。結果としてはとても面白い大学でしたし、行って良かったと思っています。
なるほどですね。医学部在学中にUSMLEのSTEP2まで取得されたとのことですが、いつ頃から海外で働きたいと考えていましたか?
私が鉄緑会という塾でアルバイトをしていて、そこに二つ上の先輩がいました。その方がアメリカに行こうと決めていたのがきっかけで、3年生の頃にその先輩がUSMLEを受ける準備をしているのを見て、私も準備を始めました。
USMLEを目指していた学生は、どのくらいの人数がいたのでしょうか?
私の学年では3人くらいでしたね。私は一人で準備していました。週3回ぐらい鉄緑会でアルバイトをしていたこともあり、他の人と一緒にやる時間が取れなかったこともありますし、私は高得点を狙うつもりもなく、合格さえすれば良いと考えていたので、一人で準備を進めていました。
STEP2の前半部分までは日本で受けられますが、後半部分であるクリニカルスキル試験はアメリカでしか受けられないんです。これはOSCE(臨床技能試験)の英語版で、8時間ほどかけて行う試験です。私の場合は、日本で受けられるSTEP2の前半部分までを在学中に終えました。
私が在学中の時にも周りでUSMLEを目指している同級生がいましたが、日本の医師国家試験も勉強しながら、USMLEも勉強するなんてすごいと感じていました。
卒業後の進路はどのように考えていたのでしょうか?
呼吸器外科と心臓血管外科の葛藤:診療科変更を決めた背景
呼吸器外科と心臓外科のどちらにするか迷っていたのですが、ちょうど祖父が私が医師免許を取る直前に肺がんで亡くなり、それで呼吸器外科への興味を失ってしまいました。また、心臓外科の教授が海外留学を推奨していて、自分のやりたいことと合っていたこともあり、医学部卒業時には心臓外科を志望するようになりました。
私の頃は初期研修医制度がありませんでしたので、卒業後ストレートに1年目から心臓血管外科に進みました。
なるほどですね。卒業されてから初期研修で心臓血管外科を選ばれたということですが、そこから呼吸器外科に戻られることになった経緯を教えていただけますでしょうか?
医師6年目から7年目になる頃に、複数の理由が重なって、診療科変更を決めました。
まず、研修医の時は合宿生活のようで楽しかったですが、その後、医師3年目で市中病院に赴任すると、一気に責任感が増し、要求されるレベルも高くなりました。病院によってサポートの質や指導医の性格が大きく違うのが印象的でした。当時はパワハラも横行していて、それが当たり前のように受け入れられていた時代でしたね。
そんな中、裁判や上司からのパワハラなどいくつかの出来事が同時期に重なりました。それが診療科を変える大きな要因となりました。もちろん、心臓外科は技術的にも学問的にもかなり面白く、心臓外科への興味はありましたが、それを打ち消すほどの出来事があったという感じです。
また、呼吸器外科は技術的にも心臓外科と比較的近い診療科であることと、心臓外科で困っていた時に、呼吸器外科の先生が色々と相談に乗ってくださったこともあり、呼吸器外科への転科を決めました。
それはとても大変でしたし、大きな決断でしたね。
呼吸器外科に転科してから、海外留学についてはどのようにお考えでしたか?
最初は心臓外科医として留学しようと考えていましたが、転科の時期にはその余裕がなく、まずは診療科をしっかり定めることが最優先でした。
ただ、呼吸器外科に転科して間もなく、呼吸器外科の新しい部長が「せっかくUSMLEの資格を持っているなら、留学してこい!」と後押ししてくれたので、そのタイミングで再び留学を考えるようになりました。
海外留学への挑戦:推薦で広がるフェローシップのチャンス
フェローとして留学されるか、それともレジデントとして進むかはどのように考えていらっしゃったのでしょうか?
レジデントで行くかフェローで行くか、どちらも検討していましたが、採用自体が非常に厳しい状況だったので、レジデントでもフェローでも採用してもらえるならどちらでも良いと考えていました。
アメリカでのフェローシップの採用過程について教えていただけますか?
日本もそうですが、アメリカは特に信頼できる人からの紹介を大事にする国なんです。多国籍国家ですし、どんな人が来るかわからないので、紹介者の信頼度が非常に重要視されます。変な人が来ると、チーム全体の診療がうまく回らなくなることもあるので、紹介を大切にするんですね。
日本の場合、狭い世界で誰がどういう人かという情報がすぐにわかりますが、海外ではそれが難しいです。ですから、信頼できる人からの推薦が重要なのです。実際に私が手当たり次第にメールを送っても、ほとんど返事が来なかったです。
なるほどですね。そうした中で、紹介も活用しながら応募されたんですね。
ええ、そうです。ちょうど呼吸器外科で初めて赴任した病院の先生が海外留学経験者で、その方が紹介してくれることになりました。
外科で臨床留学というのは珍しいことですよね?
そうですね。外科の中でも心臓血管外科は少し例外で、外科系の中では一番留学者が多いところです。
留学された先生も心臓血管外科で留学されていたんですね。
ええ、そうです。だから、心臓外科を辞めた私を推薦するのは複雑な思いがあったと思いますが、広い視野を持ってグローバルな考え方をされていたんだと思います。
私を推薦してくれた先生の友人がペンシルベニア大学で呼吸器外科のスタッフをしていたので、まずそこに紹介してもらい、さらにその後メイヨークリニックも推薦していただきました。
面接はオンラインだったんですか?それともアメリカに行かれたんですか?
実際にアメリカに行きました。ペンシルベニア大学まで行って、呼吸器外科のスタッフ5人と面談しました。
どのようなことを聞かれましたか?
基本的な質問だったような気がします。なぜここでトレーニングしたいのか、将来的な目標は何か、これまでどのようなトレーニングを受けてきたかなどでした。ただ、日本の研修システムについて話しても、あまり理解してもらえなかった印象です。
英語での面接ということで、特に準備が大変だったのではと思いますが、そのあたりはいかがでしたか?
準備というか、どう準備していいか分からなかったですね。でも、ドクター同士の会話は思ったほどハードルが高くありませんでした。専門用語が共通しているので、話す内容はだいたい理解できました。もちろん、流暢な英語を求められるわけではないので、思っていたほど難しくはなかったです。
ちなみに、私は小学校の時に一年間アメリカの学校に通っていましたが、それ以外はほぼ日本で育ちました。
準備なしで面接に臨まれてみて、感触はどうでしたか?
意外と話が通じましたが、特別良い返事をもらえたわけではなく、とりあえず面接が終わってほっとした感じでした。
その後、ペンシルベニア大学では他の方が採用されたので不採用でしたが、たまたまメイヨークリニックで空きが出て、そこに入ることになりました。メイヨークリニックはアメリカの中でも独特な病院で、卒業生を非常に信頼している場所なので、その紹介が決め手になりました。
面接の前にすでに採用が決まっていたということですか?
そうですね、面接は形だけで、実質的には紹介で決まっていました。
そうなのですね。ビックリしました。普通に応募すると、非常に競争が激しいのでしょうね。
そうですね、私が応募したプログラムは2年間限定のもので、専門医を取得できる正規のプログラムではありませんが、外国人でも参加できるプログラムでした。正規の専門医プログラムは非常に倍率が高いですね。
濱路 政嗣|呼吸器外科医
奈良県立医科大学呼吸器外科教授。2001年、京都大学医学部卒。米メイヨー・クリニック、米ブリガム・アンド・ウィメンズ病院のクリニカルフェロー、京都大学呼吸器外科を経て、2024年4月より現職。外科専門医、呼吸器外科専門医。共著書に『なんでやねん! 根拠がわかる解剖学・生理学 要点50』(メディカ出版)『外科レジデントのための呼吸器のベーシック手術』(日本医事新報社)『初期研修医の今からはじめるDoctor’s English(メディカ出版)』など。