整形外科志望の研修医が総合診療プログラム責任者になるまで 前編│板橋中央総合病院│安本 有佑 先生

医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、可能性を広げた先にある景色、そして、そこに至るまでの障壁や葛藤についてお話を伺っています。

今回は、板橋中央総合病院で、救急総合診療科に従事する安本 有佑 先生(板橋中央総合病院/救急総合診療科)にインタビューを行いました。
後編では、安本先生のキャリアの歩みについて伺いました。

>>後編『板橋発でエクステンシビストを育てたい 後編│板橋中央総合病院│安本 有佑 先生』はこちら

目次

両親が喜ぶ姿を見たくて、医師を目指す

Antaa 加藤

安本先生が医師を目指されたきっかけや、救急総合診療科を選択された背景など、エピソードや思い出などがあれば伺えればと思います。

安本先生

私は和歌山県で生まれました。家族は医師や医療職とは全く縁がなく、父親は小さな串カツ屋を営んでおり、母親もその店を手伝っているという家庭環境の、男三兄弟の長男でした。
医者になりたいと思った理由を振り返ると、人助けをしたいといった、大それた動機はむしろなく、自分が医者になりたいと言ってみたとき、両親が驚き、串カツ屋の子供が医者になるなんて全く予想していなかったと、すごく喜んでくれたことが大きかったのだと思います。
当時の反応も「おお!いいな!なれなれ!」という感じで、両親が喜ぶ姿を見るのがとても嬉しかったのだと思います。なので初めは、途方もない夢として、医者やパイロットになりたいと言っていることが多かったですね。

Antaa 加藤

小学生くらいの頃ですかね。

安本先生

そうですね。小学校の文集を見ても、医者かパイロットになりたいと書いてありましたね。そう言うと親が喜んでくれるからだったのだと思います。私は小学校の頃から、ずっとバスケットボールをしていましたが、バスケットボール選手になりたいと言ったときは、両親はあまり喜ばなくて、「バスケの選手かー」といった反応でした(笑)
私も初めから意味をわかって医者やパイロットになりたいと言っていたというよりは、本質的に人を、特に両親を驚かせたり、サプライズをするのが好きだったからなのだと思います。

安本先生

中学受験では智弁学園和歌山中学校に進学しましたが、そのきっかけは負けず嫌いな性格だと思います。小学校低学年のとき、公文に通っていたおかげで、勉強が少し得意だったりしました。しかし、小学4年生ごろになると、塾に通う友達の中で私よりも優秀な子たちが増えてきて、負けたくないと思い塾に通い始めました。両親は私に「塾に行きなさい」とか「進学校に行きなさい」と言うタイプではなく、自分から親にお願いし、進学のために塾に行かせてもらいましたね。
中学・高校時代はバスケットボールや応援団など、さまざまなことを経験しましたが、最も大きな経験であり、医者という職業をより具体的に意識することになった契機となったのが、父の病気・死でした。私が高校進学する頃には、父が体調を崩し始め、入退院を繰り返すようになりました。高校3年生の11月に父は亡くなりましたが、その時間の流れの中で、医師になるという決意が私の中でより強固なものとなったのだと思います。

離島での出会い、最新の知識で患者さんに全人的な医療を届ける

Antaa 加藤

ご両親を喜ばせたい思いで医師を目指され、その後医師としてのキャリアをスタートする時、初めから総合診療科と決めていらっしゃったのですか?

安本先生

実は全然違う分野を元々志しており、整形外科医になろうとしていました。
その理由は二つあります。智弁学園和歌山高校を卒業後、鳥取大学に進学したのですが、整形外科が身近に感じられたのは、部活でよく面倒をみてくれた先輩が整形外科医だったことだと思います。初めに整形外科がこんなに楽しいのだと感じたきっかけをくれたのは、その先輩のおかげでした。

安本先生

もう一つの理由は、当時和歌山県立医科大学 整形外科の教授であった、吉田宗人先生との出会いです。鳥取大学を卒業後、いずれは和歌山県に帰ろうと考えていましたが、和歌山県は、比較的過疎化が進んでいる地域でもありました。その中で、吉田先生は医療で人を呼び込み、地域を活性化させたいとお話しされていました。私がまだ大学4年生くらいのときのことですが、その吉田先生のビジョンに強く惹かれ、いずれは和歌山で整形外科をと考えたのが2つ目の理由です。
なので、鳥取大学を卒業するときも、整形外科の医局の先生たちに相談をし、先々整形外科としてキャリアアップするための最適な場所として、整形外科の指導体制が充実していた、島根県の松江市立病院での初期臨床研修を選択しました。
その辺までは本当に整形外科一本の思考で、研修のローテーションも整形外科や麻酔科を数ヶ月間ローテーションし、ローテ中ではないときも、骨折の患者さんが来たときは整形外科の手術に入れてもらったりして学んでいました。本当に整形外科になるんだという思いしかありませんでした。

安本先生

おそらく私のキャリアのターニングポイントの一つは、地域研修で隠岐の島に行ったことです。
隠岐病院では、自治医科大学出身の先生たちが非常に活躍していて、彼らは最新の研究やエビデンスを理解した上で、患者さんに最適な医療を提供していました。その姿を見て、私は「このままだと、私は限られた視野しか持たない医者になってしまうのではないか」と非常に強い危機感を感じました。
隠岐での研修を終え、松江市立病院に戻った後、本当にこのままでいいのだろうかと迷っていた私は、もう一度隠岐病院での研修をお願いしました。再度の研修を通じて、私はきちんとジェネラルに患者さんを診るスキルを身につけるべきだと考えました。そうしなければ、道端で困っている人や、飛行機の中で体調を崩している人、あるいは体の不調で困っている親戚の相談にも乗れない医者になってしまうと感じたのです。
時期的には遅かったのですが、2年目の10月〜11月頃、私はジェネラルな医療の修行に出ることを決意し、その後再び整形外科に戻ろうと思っていました。

Antaa 加藤

整形外科一本の思考から、少しずつ変化があったのですね。

安本先生

またその頃、「Hospitalist」という雑誌が創刊されたぐらいの時期で、周りの優秀な先生たちがその雑誌を読んでいたので、優秀な人たちはこういうのを読むんだなと思ってページを開いてみると、練馬光が丘病院と東京ベイ市川・浦安医療センターという2つの病院の先生たちが多く記事を書かれていました。
こういうところに行けば自分が思った修行ができるんだなという、本当に安直な考えで、その2つの病院にすぐに見学に行きました。
その上で、素晴らしい指導環境や、多職種が楽しく働いていると感じた練馬光が丘病院に雇用していただき研鑽を積んだことは、私の医師人生の基盤となっていますし、そこで私を育ててくれた先輩、同期、後輩、多職種の皆さんには、感謝してもしきれません。

先輩方へ相談することで出会いを増やす

Antaa 加藤

一度ジェネラルな研修をして整形外科に戻ろうという思いがあったと思うのですが、今に至るまでのお話を伺えますでしょうか。

安本先生

医師3年目に練馬光が丘病院に入った当初は、同期と比較しても圧倒的に劣等生であった自分にとっては、毎日がテスト期間のようで、本当に苦痛でしかありませんでした(笑)最初の3か月くらいは、「これをずっと続けるのは無理だ」と思いながら、いつ整形外科に戻ろうかずっと考えていました。
しかし、そんな出来の悪い私に対しても諦めず、特に二人の先輩医師に手厚く指導していただきました。私と同じ鳥取大学出身で、現在は大阪の井上病院 総合内科部長の濱田治先生と、私のメンターであり、現在は都立広尾病院 病院総合診療科部長の小坂鎮太郎先生です。お二人には時に厳しくご指導をいただきましたが、医師として患者に向き合う姿勢、多職種との関わり方など、私の医師としての型を作っていただいたと思います。そのおかげで、4年目、5年目になると、最低限のことは自分でできるようになってきていました。
5年目には、そもそも私と同学年の人があまりいなかったこともあり、チーフレジデントに選んでいただきました。その際にジェネラルに患者さんを支えるだけでなく、医療の質・患者安全や組織の運営などにも触れたことで、総合診療科という診療科が病院にとって非常に重要であり、やりがいのあるものであると実感しました。総合診療科を志す人が増えれば良いなと強く感じるようになったんです。
その後、医師6年目に板橋中央総合病院へと移ることになりました。きっかけは、当時副院長だった加藤良太朗先生(現院長。米国にて総合内科・集中治療に従事。)との出会いでした。その頃の私はまだ自分の総合内科のスキルや集中治療をもっと学びたいという気持ちが強く、総合診療を志す人を増やすためには、自分自身がその分野でさらに成長しなければならないと感じていました。そう考え、加藤先生と一緒に仕事をしようと板橋中央総合病院に移りました。
板橋中央総合病院に赴任した後も、私はまだ誰かから何かを学びたいという気持ちが非常に強くありました。そんな中、先ほどお話しした小坂先生が、私が医師7年目のときに、板橋中央総合病院で総合診療プログラムを立ち上げられました。これが私にとって2つ目のターニングポイントであり、「総合診療で生きていく」という決意を固めるきっかけに繋がります。
私は自分自身の未熟さも強く感じていたので、外部研修などで自分を更に磨きたい、また磨かなければならないと感じていました。一方で、自分自身が学ぶ段階から、次のステップである指導者や管理者としての役割を果たさなければならないフェーズに入っているとも感じていました。様々な葛藤や自分自身のキャリア形成などを考え抜いた結果、小坂先生に「総合診療プログラムは私がやります。」と伝えました。今でもその電話のやり取りを鮮明に覚えています。この決断が、私の2つ目のターニングポイントとなり、現在も総合診療科を続けている理由の一つだと思います。

Antaa 加藤

先生ご自身がキャリアの壁にぶつかったとき、どのように解消されてきましたか。

安本先生

私は、遠慮なく他の人に相談することが多いです。
それは先輩に限らず、同世代・後輩にも分け隔てなくですが、その中でも、先輩方に相談することが多いですね。応えてくださる先輩方が多くいるという環境に恵まれているのも大きいと思います。正式にメンターとメンティーの契約をした訳ではないですが、小坂先生や加藤先生をはじめ、院内外の多くの先輩方に育てていただいています。
現在・未来の自分のキャリアがどう形成されているのかや、今の悩みを客観視し言語化する作業は自分でも行いますが、どうしても主観が入ってしまうことが多いので、そういったときに客観的な視点から私に即した道を示してくれる先輩方に相談することはとても有意義ですね。
年齢や所属など、自分の属性に近い人は相談しやすいとは思うのですが、そうではない人に遠慮なく相談するっていうのがすごく大事なことかなと思います。


安本 有佑|救急総合診療科 医長
鳥取大学卒業。松江市立病院にて初期研修後、練馬光が丘病院 総合診療科で研鑽を積む。同院チーフレジデントを経て、板橋中央総合病院 総合診療内科に赴任し、2020年より総合診療プログラムディレクターを務める。2024年より現職として、病棟業務、救急診療、外来診療、後任の指導に従事。

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