医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、可能性を広げた先にある景色、そして、そこに至るまでの障壁や葛藤についてお話を伺っています。
今回は、板橋で総合内科をマネジメントしている友田 義崇 先生(板橋中央総合病院/総合内科)にインタビューを行いました。
前編では、友田先生のキャリアのあゆみについて、じっくりとお話を伺いました。
>中編『 専門医取得後の空疎感とホスピタリストとのゆるやかな出会い』はこちら
>>後編『若手医師のキャリア相談はベストな選択をとことん一緒に考えたい、他院も勧める診療部長 』はこちら
自分にできることは逆上がりでなく勉強、医師を志せば人のためになれる
医師を目指したきっかけや理由を教えてください
特に自分の家庭環境の周りで医療者がいたというわけではなく、家族からの影響などはなかったですね。
少なくとも勉強はできる子で、学校や勉強が嫌だなという感覚も特になかったんです。これって別にみんなが持ってるものではないんだろうなと思いました。逆に周りの友達ができているのに、自分ができないことっていうのもやっぱりあって、・・・逆上がりは、僕だけできませんでした。
工作とかもそうだったんですけど、みんなができてるものができなくて、そこにはすごい劣等感がありました。
なので、勉強ならできたという僕の特性は、みんなが持って生まれたものではないだろうというところで、何かそれを生かせることがしたいなというのがひとつ思ったことですね。
なんだかキュートな劣等感ですね。先生、逆上がりできなかったんですか
できなかったです、ずっと(笑)
それから、自分の中学・高校がキリスト教系の学校だったんですけど、Men for others, with others(他者のために、他者とともに生きる人間)といって、他人のために生きる人になりなさいということで、結構口癖のようにみんな言っていました。
誰かの、他人のために何か自分ができることがないかなっていうことを考えたら、やっぱりそこは医師なのかなと思った、っていうのがそうですね、かっこいい理由です。
かっこ悪い理由は、医者は要は勉強してればいいんだろうと、何と言うか、社会に出るといろんな政治を使ったり、いろんな根回しをして出世しないといけないんだろうな、と思っていました。それは自分には向いてない、と。だからそんなことをやらなくていい職業になりたいと思ったというのがあります。
なんというか、僕も医師になってみて全然そうではなかったなと思ってるとこなんですけど(笑)
かっこいい理由のほうのMen for othersというのは、結構ずっと今でもこうやって覚えていますし、潜在意識的なところではずっと残ってんだろうなとは思います。あと、周りに医師を志す人が多かった環境というのもあるので、そういう影響はあったんだろうとは思います。
呼吸器疾患が増える、流れに乗って呼吸器内科へ
友田先生は元々呼吸器内科がご専門ですが、選択された理由を伺えますか
呼吸器内科を選択したのは、まず、これもやっぱりかっこ悪い理由は、手術に自分は耐えられないだろうと(笑)
体力的なところや、ずっとトイレも行かず立ちっぱなしなのは無理だな、と思ったところがあって。元々そんなに手先が器用な方ではなかった、っていうのもあります。それで、結局誰かの役に立ちたいというところに立ち返るんですけど、そもそも手先が器用でないのに、外科になって自分が人の役に立つとはとても思えなかった、というところで、自分は内科の方がいいなと思いました。
我々の年代だと、初期研修のローテーションもまだ義務ではない時期だったんですよね。なので、卒業したらすぐ何科っていうのを決める、学生のときにある程度進路を決めないといけないというところで、まず内科にしました。
2年間内科をローテーションして、現在の専門である総合内科とか総合診療は、やっぱり当時の広島にはそんなになくて、そういう選択肢は全く思い浮かびませんでした。
当時はみんな卒業したら基本的には大部分は、大学病院で研修するというルートがほとんどでしたので、大学病院の中で専門臓器を決めていくっていうのが当然のようでした。あんまりそこに疑問もあまり感じなかったのと、もう本当に流れるままに当時は乗ってたっていうのが正直なところですかね。
広島出身で、広島大学に入って、広島大学の大学病院で研修して、もうこの辺りは本当に当時は自分の意志っていうのはあってないようなもんだったのかなと(笑)
呼吸器内科に入った理由は割と明確に覚えてるんですけど、学生のときの授業で、例えば肺がん、もしくはCOPDといった、患者さんがどんどんこれからも増えていく、経年的に増えていくっていうグラフを見たときに、ここなら自分も必要とされるかなと。
「人の役に立てる」と感じられた瞬間ですね
そうですね。あとは実際ローテートで回ってみて、その科の雰囲気とかですね。
当時はまだ電子カルテではなく、紙のカルテで、レントゲンやCTもフィルムを照明台にかけて、みんなで周りを囲んで見て議論するみたいな、そういう時代だったんですけど。
そうやってみんなで写真を見て、ああだこうだって話し合うのは結構楽しくて。循環器内科も、純粋にダイナミックで面白いなと思ったので悩んだんですが、結局最初からやっぱりここかなと思っていた呼吸器内科に入った、という感じですね。
大学医局の正規ルートを歩むも、やはり臨床マインドだった
その後、広島、福岡、東京と生活拠点も変えながらキャリアチェンジをされてきたと思います。現在の総合内科に至るまでどのようなターニングポイントがあったのでしょうか
まず自分は最初、卒後3年目のいわゆる今でいう専攻医という時点で、市中の病院に一応呼吸器内科として出たわけですけども、その病院は急性期だけではなく、ケアミックス型の病院だったんですよね。
自分は最初、結核が診れるようになりたい、呼吸器といえばやっぱり結核だろう、結核が診れないと駄目だろうと当時は思って、結核が診れる病院にまず行かせてもらったというのがあります。行ってみたらその病院は、呼吸器内科医なんですが、例えば胃カメラ、胃透視、腹部エコー検査など、いろんなこともみんながやらないといけないと。そういう環境だったので、呼吸器はもちろん診つつ、他の内科の先生がやるような手技っていうのもいろいろできるような環境でした。
そういった病院に自分が自ら行ったっていうのも、やっぱりそういうマインドが多分元々はあったんだろうなとは思うんです。
その頃からジェネラルなマインドがあったのですね
何でもやるという病院が、大学病院の外での最初のスタートでしたが、当初自分は研究にちょっと興味があって、なるべく早めに一度大学院に行って研究に触れてみたいなという思っていました。
医師5年目から大学院に入り、博士号を4年かけて取りました。その間、2年間は東大に行かせてもらって、完全に基礎研究のみできる期間ももらえた。これもご縁があり研究ができる場所があるということで行かせてもらったっていう感じなんですけども、正直研究をやってみて、自分にはあわないと思ったんですよね。
当時はやっぱり、医局に入ったら大学院に入って、っていう、正規ルートと呼ばれるようなものがあって。自分もそこに乗らないといけないのかなっていう思いと、医者になったんだから研究をやってみたいなという思いもありました。
うまくいけば留学とかもしたいなという思いもあって、大学院に入ったんですけども、完全にもう基礎研究のところで、何か結果が出るとすごく「おぉ」って思うんですけども、あまりにも先のことをやっている。もちろん、今結果が出たとして、それがすぐ役立つようなものではなくもっと先で役に立つというのが、基礎研究の醍醐味だとは思うんですけども、自分にはそれが霧の中を歩いているような感覚で、これをずっとやるっていうのはちょっとしんどいなと思いました。
あと、研究一筋でやっているような人と比べると、どうしても勝てない。臨床医もやりながら研究をしているという立場で、研究だけで頑張ってる人たちの中で研究するっていうのはちょっと失礼な感じもして。役立てる自信はなかったです(笑)
「役に立てている」っていう実感を持ちながら、自分のキャリアを歩んでいくというのは、大事な軸になってるポイントでもあるんですね
そうですね。振り返るとなんかそうなんだろうな。最後は多分、基礎研究というのももちろん役立ってるはずだと思うんですけども、なかなか実感が持ちにくかったなとは思うんですよね。
当時やっぱり最初はもう研究でって思って入ったけども、「どうもこれちがうわ」と思ったので、そこで研究で生きるっていう道はもう捨てた。やっぱり臨床医としてやっていこうと決めたのが、卒後8年目か9年目。大学院が終わるぐらいのときだったかなと思うんですけども、これ以上研究で生きていくのは、そこでやめようと割とそこはもう未練がなくなったという感じです。
やるだけやったぞという
やるだけやった、東大にまで行かせてもらってやったけど、それでもあんまりそこに自分が魅力を感じなかったというか、これは多分自分では無理だなと思ったので、もうそこで割と諦めがついたというか。
という感じで、もうあとは臨床で頑張ろうと。
友田 義崇|総合内科
広島大学 2001年卒業。広島大学病院 呼吸器内科、東京大学で基礎研究、北九州総合病院呼吸器内科、済生会福岡病院総合診療部を経て、現在の板橋中央総合病院 総合診療内科に主任部長としてマネジメントに従事、2024年から現職。