専門医取得後の空疎感とホスピタリストとのゆるやかな出会い 中編│板橋中央総合病院│友田 義崇 先生

医師の新しいキャリアや働き方にフォーカスする「D35」は、実際に医師の可能性を広げられている先生にインタビューし、可能性を広げた先にある景色、そして、そこに至るまでの障壁や葛藤についてお話を伺っています。

今回は、板橋で総合内科をマネジメントしている友田 義崇 先生(板橋中央総合病院/総合内科)にインタビューを行いました。
中編では、友田先生のキャリアのターニングポイントについて、じっくりとお話を伺いました。

>>前編『自分にできることは逆上がりでなく勉強?!~医師を志せば人のためになれる~ 』はこちら
>>後編『若手医師のキャリア相談はベストな選択をとことん一緒に考えたい、他院も勧める診療部長』はこちら

目次

いろんなことを必要とされ、積み重ねた7年間

Antaa 加藤

大学院を出たあと、臨床でやっていこうと考えられた時、九州福岡に移る転機があったんですね

友田先生

九州に行ったのは、あくまでも医局人事で行ってるんです。多分ここも結構ターニングポイントになるかなと思っていて、広島大学の医局人事は基本的に広島に関連病院があるんですけども、そのときはその1箇所だけ北九州っていう土地に関連病院があって、そこに行きなさいと言われました。
それが大学院終わったばかりの時、要は博士号を取って、自分としてはその後は広島の大学病院で働くつもりだった時なんですよ(笑) でも北九州に1年だけ行ってくれっていう話になって。向こうが少し盛り下がってるから、盛り上げ直してほしいと。
それが2009年の話になります。この2009年の当時っていうのは、ちょうど新臨床専門研修制度の始まりの頃で。そのあたりで何が起きたかというと、大学の関連病院からどんどん大学に医師を戻しはじめたタイミングだったんですよ。そのあおりを食ったのが、自分の行っていた北九州総合病院というところで、そこは広島大学から消化器内科とか、腎臓内科、循環器内科が人を出してたんですが、そこが全部引き上げますと。

Antaa 加藤

おぉ……、全部引き上げはかなり大変ですね

友田先生

自分が行ったときに消化器内科医がいなくなったんですよ。
あと循環器内科医もいなくなったんです。
規模的には360床ぐらいの3次救急の病院だったので、救命センターもあるような救急を頑張っていて、いわゆる野戦病院でした。 

友田先生

なので僕が行ったときにはそうやって、医者がどんどん引き上げられたというタイミングで、内科医がその当時多分6、7人ぐらいしかいない。だからこそ盛り上げてくれ、っていう理由だったんだと思うんですけども。病院自体はかなり深刻な雰囲気というか、どうするんだっていう、断らない救急っていうのを請け負ってたような病院なので、どうしていこうか、というような状況でした。

もちろん呼吸器内科として行ったんですけども、やっぱりそこの中で他の疾患も診ないといけない。それが医師9年目で、自分より学年が上の先生が2人ぐらいしかなくてあとは3年目ぐらいの先生が何人かいるような感じ。ほとんどトップみたいな感じに9年目の時点でなってしまったところは結構ターニングポイントになってる気はします。

自分も大学院を終わったばかりだったので、ちょっと臨床から離れた状況でそこに行って、放り込まれたっていう感じだったんですよ(笑)

Antaa 加藤

結構スパルタな人事ですね(笑)

友田先生

そうですね(笑)
今思うと結構ひどいなと思うんですけど、でも結局そこで1年だけやってくれということで行ったんですが、「なんか頑張ってるみたいなんでもう1年どう?」みたいな感じなってしまって、そのまままたもう1年いた。っていうのが積み重なって、結局そこに7年いました。

Antaa 加藤

結構積み重なりましたね!

友田先生

結果的に7年間も積み重なった理由の一つは、そこの中で呼吸器内科だけじゃなく、いろんなことを必要とされていたというか、例えば感染症を見れる人もあんまりいなかったっていうのがありました。

同僚に3年目の先生で、グラム染色とかいつも楽しそうに見てて、感染症内科になりたいっていう人がたまたまいたんですよね。その当時は感染症内科っていうのをあまり知らなかったので、「感染症内科って何?」っていうところから始まって、その若手の3年目の先生がやってるのを9年目の自分が見て、「あぁ、感染症はこうやって診るのね」というような感じでした。ただそういう、人との偶然の出会いからきっかけをもらったというのは大きかったと思うんです。

あとはもう、本を読みながらとか、独学に近いんですけども、勉強をしながら、検査技師の方にグラム染色を教えてもらいながら自分で診るようになってくると、感染症ってやっぱり多いので、その病院の中では結構需要があって、自分にいろんな相談が入るようになって、自分がその辺りの中心的な感じで働くようになってきたんです。
その病院から必要とされる度合いが何となくだんだん増えてきて、1年、また1年、また1年、っていう感じで伸びた。

Antaa 加藤

「人の役に立っている」が7年間積み重なり続けたんですね

友田先生

そんな中で、大学病院からは帰って来いっていう話もあったんです。ここもターニングポイントかもしれないんですけど、大学病院かこのまま市中病院かというところで大学に帰るつもりでいたのですが、諸事情で残留することになりました。
それを知った時は、もう送別会とかも若干開いてもらってて、広島に家も決めていて、戻る準備ができていた段階だったんですけど、いろいろありまして送別会を開いてもらっておきながら、結局残留しちゃったんですよ(笑)
そこで関連病院に残留したとなると、もう大学としては、いやここで帰らなかったら大学にはもう帰れるポストはない、と、それでもいいのかと。・・・ちょっと迷ったんですよ、確かに。迷ったんですが、いや、それはもういいですと。自分の中で大学に帰るっていう道もなくなりました。

専門医を取った後はどうするか、立ち止まってしまった

Antaa 加藤

大学人事を離れる選択をされた後、どのようにキャリアを形成していこうと考えられていましたか?

友田先生

北九州の関連病院で専門医・指導医を取ったんですけども、ここは自分の反省点というか、専門医を取ってその後何をするか、というのが明確でなかったんですよね。
今まではどちらかというと流れに沿ってきちゃったっていうのもあって、専門医は取りました。専門医って割とわかりやすい目標にはなるんですが、取ったときに、その後どうしようって、そこで止まっちゃったんですよね。

友田先生

多分それが医師10年目11年目、その辺りですかね。何となくわかりやすい目標はあったけど、取ったからといって何か変わるわけでもないし、自分がすぐ何かできるようになるわけでもないし、ただこう、専門医の認定証が来るだけで。
自分はこれからどうしていこうっていうふうに思ったタイミングと、その大学病院の道がなくなった(なくなったというか自ら選んだんですが)タイミングが同時期ぐらいにやってきて、多分2、3年ぐらいは、ちょっとモヤモヤしたままいたことになりますね。

Antaa 加藤

そのモヤモヤとはどのように付き合っていましたか?

友田先生

この時期は数年いろいろ迷って模索していました。迷っている中で、総合診療の先生たちと出会って、これはなんだか面白いなと。

北九州の地域って飯塚病院があるんじゃないですか。その当時、総合診療の勉強会がかなり豊富にあって、だんだんいろんな勉強会に参加するようになっていきました。そこで飯塚病院や、北九州エリアで総合診療をやっている先生方と知り合うことが増えていったんですね。「なんかこの人たち面白いことやってるな」というように感じるようになりました。

呼吸器内科なのでがんにも興味があって、自分の働き方として臓器に縛られたくないなという思いも出てきて。例えば腫瘍内科とかはどうかなと思って、病院を見学に行ったりというのも何回かしたりとか、あるいはエージェントさんを使って他の病院に見学に行くっていうこともしました。

Antaa 加藤

積極的に行動されていたんですね

友田先生

また、北九州の病院で自分が働いてる中で感じた課題感もあって。
今後高齢者が増えてきて、呼吸器だけしか診れないという人が何人いても、高齢者のようないろいろ持ってる患者さんは診れないなと。それってすごく効率が悪いというか、もっとベーシックなところが幅広く見れる人が増えたら、多分こんな、何々専門医がいないとか言って困るようなことにはならないんじゃないかな、とだんだん思い始めました。その頃と総合診療科の先生たちとの出会いが重なって、「これはもしかしたらこっちの道の方が面白い」、「この分野だったらもっと他に役立てることができるかな」と。

友田先生

あとは、ホスピタリストっていう雑誌が出始めた頃で、アメリカでは総合内科医が病棟で主治医としてホスピタリストって形で診療しているというのを読んで、「なんかすげえな、かっこいいな」と、その名前もちょっとなんかかっこいいなと思ったんです(笑)
ちょうど家庭の事情っていうのもあって、子供が小学生になるぐらいのこのタイミングで病院を変わろうと決心して、ホスピタリストっていう存在も知ったところで総合診療の方に進もうと思ったのが、15年目ぐらいですかね。
なので、そのあたりは様々な出会いが重なったターニングポイントだったなと思います。

Antaa 加藤

多くの出会いがありながら、北九州のハードな環境で過ごした期間っていうのは実は結構、先生自身が楽しんでいらっしゃったのかなと。

友田先生

そうですね。僕も前任の先生から引き継ぐときにあまりよいことは言われず入ったんですよ(笑)

でも、自分にとっては面白くない環境ではなかったかなっていうのと、医師も少なかったので決して恵まれた環境ではなかったとは思うんですが、それをネガティブな方向には考えなかった。ポジティブに考えて、自分のキャリアも変えるきっかけになっていった気がします。なんでそうなったかを説明するのは難しいんですけど、恵まれない環境の中にもやっぱり良い点はあるんだろうなとは思うんです。


友田 義崇|総合内科

島大学 2001年卒業。広島大学病院 呼吸器内科、東京大学で基礎研究、北九州総合病院呼吸器内科、済生会福岡病院総合診療部を経て、現在の板橋中央総合病院 総合診療内科に主任部長としてマネジメントに従事、2024年から現職。

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